織田信長が生きていた説
天下統一を目の前にして本能寺で横死した織田信長。明智光秀がどれだけ探しても信長の遺体を発見することはできなかったと言われています。
そんなことから信長はまだ生きているのではないか?という噂が広がり、本能寺の変後は光秀方につく武将は少なかったそうです。
当時、本能寺は火薬などが保管されており、爆発してしまい遺体が見つからなかったとか、僧たちが遺体を運び出し埋葬したからなど信長の死については様々な噂があるのです。
そんな噂の中に「信長が死んでいなかった」という説があるのです。
宿所にしていた本能寺
本能寺は現在も京都府京都市中京区寺町通御池通下ルにありますが、今の場所は1591年豊臣秀吉の命で移転しており、実際に「本能寺の変」が起きた場所とは違います。本能寺の創建は古く1415年に京都油小路高辻と五条坊門の間に法華宗の僧侶・日隆によって開山されました。
本能寺の変が起きた時の場所は1545年に四条西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路に渡る地域に広大な敷地を得て建てられており、大伽藍が造営され、子院も30余りある大規模な寺院でした。
また、本能寺は早い時期から種子島に布教しており、鉄砲や火薬の入手等でも非常に戦国大名と関係が深い寺院でもありました。
信長は当時の住持であった本能寺8世の日承上人に帰依し、この寺を上洛中の宿所としていました。
地下通路から脱出した説
そして1582年6月2日事件は起こりました。この日は信孝が四国に向けて侵攻を開始する予定の日で、光秀は四国侵攻をまさに水際で食い止めた形となりました。さて、信長が宿泊している本能寺には、信長本人と側近らおよそ30名が滞在していました。
そこへ明智光秀が軍を率いてやってきて本能寺の変が勃発しました。一説には光秀は元親を守るために謀反を起こしたとも言われています。
しかし、本能寺の焼け跡から信長の遺体は発見されませんでした。
当時の本能寺は火薬等を貯蔵していることから地下通路があったと言われ、信長はその地下通路から寺院外へ脱出したという説があります。その脱出先は南蛮寺になります。
南蛮寺とは、明智光秀が弥助を捕えた後、弥助の身柄を送ったとされている寺でもあります。
もし、その先に信長が潜伏し、南蛮寺に送られた後に消息不明となっている弥助と共に行動していても不思議ではありませんね。