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織田信長の残虐過ぎる行為まとめ


室町幕府の将軍・足利家の下、何となく上手くいっていた世の中が将軍が力を失っていくのと同時に各地で戦国大名が自身の理想とする政治を行うために争いを続けた戦国時代。

天下統一目前で横死してしまった織田信長ですが、じつは優しい一面も持っていたのですが、やはり残虐非道なイメージの方が強いのではないでしょうか。

今回は信長が行った残虐すぎてマジ引くわー的な行為について解説します。

初陣から各所に放火

13歳で元服した信長はその翌年、三河の吉良大浜で自ら指揮を取って戦い、各所に放火していました。この時代に戦での放火はかなりあったようです。

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比叡山焼き討ち

高僧、女、子供に至るまで全て焼き殺したという伝説の悪行。しかし、最近の調査では全山焼き討ちではなかったのでは?とも言われています。

織田方への協力を求め、出家の道理により中立を求め、朝倉・浅井に肩入れしたら「山を燃やすよ」と宣告しています。

それから1年後に金に目がくらみ朝倉・浅井に肩入れし、修行はしない、肉は食べるわ、女は連れ込むわでやりたい放題だったため、「約束通りに焼きますよ」ということになります。

一年待ってくれた信長、残虐行為ではあるものの致し方ない面も…..。

髑髏(どくろ)を肴に宴を開催

これも有名ですよね。浅井久政・長政父子及び朝倉義景の髑髏(どくろ)に薄濃(漆で固めて金などで彩色したもの)を正月に行われた宴で披露し、たいそうご満悦だったとのこと。私が小さい頃はその髑髏に酒をついて盃にしたという話も聞いたことがあります。

近年では死者に対して行う死化粧だったのではないか?という研究者もいます。

長島の一向一揆制圧

降伏して城砦を出ようとした一揆勢を鉄砲で掃討し、さらに刃をもって追いかけて川へ切り落とす。

中江と屋長島の両砦にいた一揆勢は、周囲に何重もの柵を張り巡らせて逃げられないようにし、男女約20000人を四方から火をかけて焼き殺しました。

狙撃犯の忍者を処刑

六角承禎に依頼されて信長を狙撃した鉄砲の名手・杉谷善住坊を捕まえ、尋問した後に首から上だけを地上に出した状態で地中に埋め、通行人に首を鋸(のこぎり)で引かせる鋸引の刑に処しました。通行人にとっても地獄ですね。

加賀・越前の一揆制圧

柴田勝家・佐久間信盛・滝川一益・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀・細川藤孝・荒木村重らをはじめとした信長軍の錚々たるメンバーが出陣し、一揆勢を一網打尽。

下間筑後・下間和泉・専修寺住持を探しあてその首を持参し、赦免(しゃめん)を願い出た朝倉景健を許さず自害させ、混乱して逃げる一揆勢を男女問わず切り捨てろと命令。

さらに捕縛されて引き立てられてきた一揆勢の男女12250名余りを小姓衆に命じて余すところなく誅殺しました。


荒木村重の一族を処刑

荒木村重が謀叛を企てているという情報が各所から入り、松井友閑・明智光秀・万見仙千代を遣わし問い詰めたところ「野心は少しもありません」という荒木の返答に安堵した信長。

母親を人質として差し出すことを約束した上で「別義なくば出仕すべし」と命令を出しましたが、村重は出仕しませんでした。

信長は「この上は是非に及ばず」として安土から出馬、二条御新造で再度、明智光秀・羽柴秀吉・松井友閑らに説得を試みさせましたが、村重はそれにも応じませんでした。

この謀叛において荒木村重が城を明け渡さず、重臣の妻子・兄弟たちを見捨てて自分だけが助かろうとしたのです。

重臣の妻の中には幼い子供を抱いている者や懐妊しているものもおり、信長もその有様を聞いて不憫に思いましたが奸人を懲らしめるために処刑を決断したそうです。

重臣の妻子122人は七松で磔(はりつけ)に処され、端侍の妻子ら388人と若党124人は矢部家定検使のもとで4軒の家へ押し込められ、焼き殺されました。

荒木村重の一族は、京の六条河原で打ち首にされました。

信長には信長の事情があるのでしょうが、現代からするとやり過ぎですね。

以上、太田牛一の「信長公記」の中から一部を拾ってみましたが、処刑に関しては信長としても苦渋の決断を強いられていたようです。

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