織田信長の戦術・戦略
戦国時代の武将、とくに大将は自分の配下に戦闘を任せて安全な場所で、戦況報告を受けながら指示を出すというのが一般的なスタイルでした。
ドラマや映画で「殿!大変でございます!」と本陣に駆け込んでくるシーンを目にしたことがあるかと思いますが、あのイメージですね。
では信長の戦い方はどのようなものだったのでしょう。
武器や組織を整える
イエズス会の宣教師で信長と会見したルイス・フロイスの日本史によれば「中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髭は少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。~中略~ 貪欲ではなく、はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。~中略~ 彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し~」と記されています。また、ダラダラとした前置きを嫌い、ごく卑賎(ひせん※身分の低い)家来とも親しく話し、困難な企てに着手するにあたっては大胆不敵で万事において人々は彼の言葉に服従した。と書かれています。
太田牛一「信長公記」首巻の中に「信長公は十八頃までは特別の遊びはせず、朝夕馬を責め、3月から9月までの間は川で泳ぎ、水練の達人であった。この頃、竹槍を使った仮戦を見て、槍は短くてはいかぬと考えて、自軍の槍を三間柄や三間間中柄などの寸法に改良した。」とあります。
信長公記首巻で鉄砲・弓・刀は、それぞれ師匠について習っていたという記述もありますので、自身の武芸の鍛錬も行っていました。
信長は大量の鉄砲を戦に取り入れ、槍の改良を行うなど自軍を強くすることに余念がありませんでした。
その他にも身分に関係なく有能な人材を自分の配下におき、その中でも優秀な人物を馬廻衆として組織しました。
さらに馬廻衆の中で武芸に秀でた優秀な人材は、前線と本陣の連絡係などを担うエリート集団「赤母衣衆」「黒母衣衆」として組織しています。
信長は武器や組織を整えた上に、機動力の高さという武器を持ち備えていたのです。
自ら戦場で戦う信長
桶狭間の戦いでは、織田軍の度重なる攻撃に騎馬で逃げようとした今川義元を追い詰めたのが織田軍の馬廻衆でした。信長はこの戦いで小姓衆数騎のみを従えて清州城を出発し、中島砦へと進軍し今川軍に攻撃を仕掛けます。
鬨の声を上げたのは総大将である信長自身です。信長は後方で指示を出すだけではなく、自ら戦場に出て戦っていたのです。
桶狭間では信長自身も馬から降りて旗本に混じって槍をふるい、それを見た者達も負けじと戦いました。この時、信長27歳。
後ろから指示を出すだけでなく自ら前線で戦っていたということは、首を取られる危険が段違いに高くなるということです。
家臣たちが必死に止めたのかもしれませんが、戦いに行っちゃったのですね。戦好きらしいので…..。
しかし、自分たちの総大将が同じように命をかけて戦に臨んでいるというのは、配下にいる者たちの士気をさぞかし上げたことでしょう。
これも織田信長の戦術の一つなのでしょう。
戦術・兵法を学ぶ信長
長篠の戦いでは鉄砲隊を主力とし、味方から損害を出さないように作戦を練ったと信長公記に記されています。信長は、ただ先頭にたって戦うだけでなく、戦の戦況を見て作戦を立てることもしていたようです。
信長は戦においての戦術や兵法の知識をしっかりと学んでいたようで、これはブレーンとなっていた沢彦宗恩のおかげでしょうか。
このことから信長は臨機応変に戦を行っていたことが伺えます。
戦術とは少し違うのかもしれませんが、この実力に裏付けられた対応能力の高さが信長自身の戦略・戦術だったのかもしれませんね。