信長の美濃攻略
1541年、斎藤道三(斎藤利政)が美濃国守護・土岐頼芸の弟・頼満を毒殺したことから頼芸と道三の対立抗争が始まりました。
1542年には道三は頼芸の居城・大桑城を攻め、頼芸父子を尾張へと追放すると事実上美濃国の国主となりました。
しかし、追放された頼芸は信長の父・織田信秀の後援を得て、先に追放されている越前の朝倉義景の庇護を受けていた土岐頼純と連携を結ぶと美濃国への侵攻を開始しました。
斎藤道三が美濃国を平定
1547年には信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けますが、道三は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込み、頼純が病死した後に織田信秀と和睦し、道三の娘・帰蝶を信長に輿入れさせました。信秀と道三が和睦したことにより、1552年道三は美濃国を平定することに成功しました。
信長は道三という大きな後ろ盾を得ることができたわけです。
道三は1554年に家督を嫡男の斎藤義龍へと譲り、自らは剃髪し道三と号し、鷺山城に隠居しました。
道三は義龍よりもその弟たちを寵愛しており、道三と義龍の不和は衆人の知るところとなりました。道三は義龍を無能と呼び、廃嫡さえ考えていたそうです。
1555年、義龍は弟たちを殺害し、父・道三に向けて挙兵、信長が援軍を出しましたが時すでに遅く、長良川の戦いで道三は討死しました。
道三は死の直前に信長に対して、美濃国を譲るという内容の遺言書を渡していたと言われています。
信長の美濃国侵攻
父・道三を討ち果たした義龍は、浅井氏や六角氏と戦いましたが、信長の美濃国侵攻が強くなってきたため、勢力拡大を果たせないまま1561年に急死し、家督は嫡男の斎藤龍興が相続しました。ただ、義龍は戦上手だったようで信長も美濃国へ勢力を伸ばせずにいました。
しかし、龍興は祖父ほどの野心も父ほどの才能もなく、家臣たちからの信望を得ることが難しかったため、美濃国を狙う信長にとっては絶好のチャンスになったのです。
1563年、信長は本格的に美濃国への侵攻を開始するため、清州から小牧山城へと拠点を移し、妹のお市の方を嫁がせることで北近江の浅井長政と同盟関係を結びました。
この時、龍興も浅井長政と同盟を組もうと考えていたようですが、信長の方が早かったようです。
この頃、信長は1565年から滝川一益の依頼を受けて伊勢方面に侵攻を開始して神戸具盛を破ります。
さらに北伊勢の諸氏を次々と降伏させ、同年5月には京を中心に勢力を持っていた三好義継や三好三人衆、松永久通が対立関係にあった足利将軍の足利義輝を殺害しました。
稲葉山城の戦い
信長は義輝の弟・足利義昭を上洛させることに協力する旨を記した書状を細川藤孝に送り、1566年9月には義昭を奉じて上洛する予定でしたが、1566年8月、信長は領国の維持を優先して停戦していた美濃国との戦を再開し、義昭は若狭国まで撤退しました。信長も「河野島の戦い」で大敗を喫し、義昭上洛のためにも美濃国を急ぎ平定せざるを得なくなりました。
その後、加治田城の城主・佐藤忠能と加治田衆を味方にし、さらには、稲葉良通・氏家直元・安藤守就の西美濃三人衆を味方につけ、1567年に天下統一に向かう第一歩となった有名な戦い「稲葉山城の戦い」が勃発しました。
この戦いで龍興の居城・稲葉山城を攻め落とし、龍興は北伊勢の長島へと敗走しました。
これにより、信長はおよそ7年がかりで美濃国を平定し、稲葉山城へと拠点を移すと井ノ口を「岐阜」と改称しました。
この辺りから信長は「天下布武」の印を使い始めたと言われており、天下統一に向けて大きく踏み出すことになるのです。