桶狭間の戦い


当時、駿河・遠江・三河の三国に渡って権力を誇っていた今川氏と織田信長による決戦が「桶狭間の戦い」です。

信長の奇襲攻撃によって、今川の大軍を少人数の軍勢で打ち負かしたとされる三大奇襲としても有名ですね。

しかし、この奇襲攻撃の説ですが、近年の研究では奇襲攻撃ではなかったという説が有力になっており、後で触れることにしましょう。

今川氏とは信長の父・信秀の代からの争いとなり、1542年の「第一次小豆坂の戦い」では織田軍が優勢でありました。

その後1548年に起きた「第二次小豆坂の戦い」では、織田方が三河国へと進出する拠点としていた安祥城を攻略されてしまい、織田氏の三河国への進出は頓挫してしまいます。

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家督を相続した信長

そんな中、1551年に織田信秀が死去。嫡男である信長が家督を相続しましたが、弟・信勝との間で家督の相続争いが起こります。

この争いで信長が勝利するのですが、織田の家臣を二分する戦いに三河と尾張の国境付近の織田勢力は動揺します。

その前後する時期に鳴海城・傘寺城を守る山口氏が今川氏に投降、さらに山口氏の調略によって大高城・沓掛城周辺が今川氏の手に渡りました。

このことは商業港である津島を支配下に置くことで財政の支えとしていた織田家にとっては大きな脅威となり、信長は今川氏の進出を阻止するために動き出します。

今川義元が進軍

1554年には知多を治めていた水野氏を支援し、今川方の村木砦を攻略して傘寺城を奪還。さらに鳴海城周辺と大高城周辺には砦を築いて城同士の連絡を遮断、今川氏を牽制(けんせい)しました。

1560年5月12日、今川義元がついに動きはじめます。自ら大軍を率いて東海道を尾張に向かって進軍を開始。

5日後には義元は沓掛城に入り、徳川家康(当時は松平元康)が三河勢を率いて先行し、織田軍に包囲された大高城へ兵糧を届けましたいと思います。

桶狭間古戦場公園この時点で織田軍本隊は、未だ動かず清州城にありました。

5月19日午前3時頃、徳川家康と朝比奈泰朝は大高城周辺にあった織田軍の丸根・鷲津の両砦を攻撃。

この一報を聞いた信長は、出陣準備を整え清州城を出発しました。

この時、信長に従っていたのは、小姓衆わずか5騎のみでした。午前8時頃に熱田神社へ到着した信長は、軍勢が集結するのを待って熱田神宮に戦勝祈願を行い、10時頃に鳴海城付近にある善照寺砦に入って2000~3000の軍勢を整えました。

一方、今川義元は織田方の丸根・鷲津の両砦を陥落し、桶狭間の戦いにおける前哨戦に勝利、本隊を沓掛城から移動するのですが、途中で休息をとった桶狭間山で豪雨に見舞われます。

その機に乗じて信長は軍を進め、今川軍本隊に奇襲攻撃を仕掛けるのです。

この時の今川軍は20000人ほどだったと言われていますが、義元を守る兵は5000余りで戦力が拮抗し、義元・信長両軍の大将が自ら刀を振るうという戦いになりました。

義元は織田軍の度重なる攻撃に兵を削られ、騎馬で逃げようとしましたが、信長の毛利良勝によって首を討たれました。

総大将を討ち取られた今川軍は戦意をなくし、桶狭間の戦いは織田信長の勝利に終わるのです。

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奇襲攻撃ではなかった説

これまでは桶狭間山で休息をとっていた今川軍の背後に回り込み、信長が奇襲を仕掛けたとされていましたが、じつは奇襲攻撃ではなく信長は今川軍を正面から攻めたという説があるのです。

これは信長の歴史資料の中の一つ「信長公記」によると、善照寺砦から家臣たちが止めるのを振り切って信長は中島砦に軍を進め、全軍に指令を出しました。

そこへ前田利家・毛利十郎・木下雅楽助が、それぞれに首級を持って参陣し、彼らを手勢に加えた信長は、桶狭間山の山際まで隠密裏に軍を進めました。

この時に突然嵐に見舞われ、熱田明神のご加護だと兵士たちは、ささやき合ったとも書かれています。

これまでは善照寺から北へ進軍し、太子ヶ根から眼下の今川軍を攻撃したとされていましたが、中島砦から南東へ進軍し、桶狭間山の南側に陣をとっていた今川軍に対して正面から一気に攻撃したという説が有力となっています。

北と南どちらから攻撃をしたのかは未だ謎ですが、この戦いによって駿河の今川義元はこの世を去り、信長はさらに勢いを増すことになったのです。


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