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織田信長と比叡山延暦寺


なぜ比叡山延暦寺は焼き討ちに

織田信長といえば、破天荒な性格で自由な発想をもとに数々の偉業や悪行を行った「第六天魔王」、超有名戦国武将です。

そんな信長の悪行の中でも有名なのが「比叡山焼き討ち」ではないでしょうか。

比叡山延暦寺が焼き討ちされたのは「姉川の戦い」の翌年1571年9月。攻撃した理由は前年の「姉川の戦い」で敗走した朝倉・浅井の兵を匿っているからでした。

理由はそれだけではありません。

当時の比叡山は僧兵という武力を抱えており、その力はトップクラスで戦国大名にも匹敵するほどでした。宗教的にも767年に最澄によって開山された天台宗の総本山という権威がありました。

そんな強大な力を持つ寺院の僧たちはやりたい放題でした。

勝手に関所を作っては通行税等を取り、町へ出かけていっては酒を呑んでは女性を寺院へとお持ち帰り、飲酒も姦淫も仏教では禁止されている行為ですが堂々と行っていました。

何か起こっても、そこは権威も武力もある比叡山延暦寺です。泣き寝入りするしかありません。比叡山延暦寺の僧たちは仏教の教えを順守するどころか腐りきっていたようです。

権威もあり、力もあり、物流の利権も握っていて金もある比叡山延暦寺。天皇の言うことも聴かない比叡山延暦寺。

この時代は「僧侶を傷つければ仏罰が下る」とも言われていたようで、余計にやりたい放題に拍車がかかっていたのかもしれません。

そんな延暦寺がそうとは知らずに持っていた破滅へのカードが朝倉・浅井の敗走兵でした。

延暦寺は東国路と北陸路が交わる交通・物流の要となる場所にある好立地、こんな場所で好き勝手にやられていたらたまったものではありません。その上、自分の敵を匿っているのです。

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死者は数千人

そんな延暦寺に信長は延暦寺に対して自分の味方をしてくれれば、横領している寺院の土地を返却する、さらに味方にならなくても中立の立場になってくれ等と交渉していたようです。

しかし、延暦寺側はこの申し入れを拒否、信長は交渉の時に警告した通り、延暦寺を焼き討ちすることになりました。

まず、志賀の陣で命を落とした森可成の居城であった宇佐山城へと明智光秀を入城させ、比叡山焼き討ちの準備をさせます。

準備完了の報告を受けると石山本願寺へ向かう振りをして比叡山を包囲。比叡山延暦寺と日吉大社、門前町・鳥居前町として栄えた麓の坂本は殺戮の舞台となったのです。

この戦いによる死者は数千人に及ぶと言われています。

また、キリスト教・イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、この焼き討ちでの死者は1500人と書き残しています。それにしても相当な人数が犠牲になったということですね。

第六天魔王様という怖い信長のイメージが定着している原因ともなっています。

これまで説明した内容は、一般的に言われている織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちです。

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本当は凄い焼き討ちではなかった?

しかし、調査では実際にはそんなにすごい焼き討ちは無かったのではないかという話もあり、理由は下記の通りになります。

①信長による焼き討ちで確実に焼失したと言えるのは、根本中堂と大講堂のみでそれ以外の建物の多くは、焼き討ち以前に失われていたということがわかったということ。
②当時、僧の多くは麓の坂本に住んでいたと考えられること。
③信長の交渉を断っていたにも関わらず、いざとなったら延暦寺側が信長に金銭を渡すから助けてほしいという使者を送りましたが信長に断られ、この時に逃げ出した人も多かったと推測できること。
④発掘調査の際に殺されたとされる数千人もの大量の人骨が出土しなかったこと。

以上のようなことが挙げられています。

信長は、この焼き討ちにより、政治にまで口を出していた宗教の巨大勢力を叩いたことで政治と宗教を分離させ、延暦寺が阻害していた商業の利権を握り、宗教と商業を分離させることにも成功しているのです。

結果、宗教関係者、武将、庶民にいたるまで織田信長の名前を広く知らしめることになりました。

こうしてみてみると、信長による延暦寺焼き討ちの真相は、朝倉・浅井に味方したからということだけではなく、自分が覇権を握るために反対勢力を潰し、尚且つ、本来の姿を見失った寺社へのみせしめだったのではないかと思えてなりません。


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