織田信長の歴史
誰でも一度は聞いたことがある戦国武将・織田信長。信長がこの世を生きていたのは今から480年も前のことです。
なぜ、はるか時を超えた今でも語り継がれ、人の心をひきつけるのか….織田信長の歴史、生涯をひも解いてみましょう。
1534年:尾張国 古渡城城主・織田信秀の嫡男として生まれる。
生まれた日に関してはいつ仮説がありはっきりとしません。那古野の小領主の家に生まれたので織田家の中では、あまり上の方の家柄ではなかったようです。しかし、父君の代から徐々に頭角を現し主家を凌ぐ勢いだったといいます。ちなみに信長は2歳で那古野城の城主になっています。うちの娘と同じ年と考えると心配になりますが….城主なんです。ビックリですね。
信長は「尾張の大うつけ」と呼ばれ、清州城下に火を放ったりしていました。そのような事件により、のちの徳川家康と幼少期を共に過ごしています。
1546年:元服し織田三郎信長と名を改める。
1548年:美濃国の斎藤道三の娘、濃姫と結婚。
蝮の道三といわれた戦国大名の娘帰蝶と政略結婚します。信長は15歳でした。斎藤道三は信長の父・信秀と敵対していた人物で、この年に和睦が成立しました。その証としての政略結婚だったみたいです。
道三は下克上大名の典型で、僧侶から油商人となり戦国武将にのし上がった人物だとされています。
そう考えると蝮の娘で第六天魔王の妻になった帰蝶のこともかなり気になりますが、記述があまり残っていません。
蝮の下で育ったからこそ「大うつけ」信長の妻が務まったのかもしれませんね。
1551年:父・信秀永眠。信長・織田家の家督を継ぐ。
1553年:斎藤道三と尾張国聖徳寺で会見。教育係だった平手政秀自害。
道三はこの時の会見で信長の器量を見抜いたとの逸話があり、「山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべきこと、案の内にて候(わしの息子たちは織田の配下になるだろう)」とあります。後に道三が息子の義龍に長良川で討たれる前日には、美濃国を織田上総介に譲渡すという手紙を織田信長に送っています。
そして教育係・平手政秀は、政秀の息子と信長の確執のため、信長をいさめて自害したとも言われています。
信長は政秀の死を大変悲しみ、師匠の沢彦和尚に政秀の霊を弔う為政秀寺を開山してもらったそうです。信長は、義理人情に篤い男だったのでしょうね。
1555年:主筋の織田信友と攻め追放し、清州城を居城とする。
映画「清州会議」の清州城。この当時、尾張国の守護斯波氏は、今川氏の侵攻で力が衰え、守護代の織田大和守家当主で清州城主の織田信友が実権を握っていました。信長の父信秀の死後、信友は信長暗殺を企てますが、斯波義統が信長に密告し、怒った信友によって義統は殺害されてしまいます。
その嫡子・斯波義銀が落ち延びてくると信長は、守山城主で叔父の織田信光と協力し、信友を主君殺しの謀反人として討伐します。
これにより織田大和守家は滅び、信長は那古野城から清州城へと移り住みます。
1559年:尾張国を統一し国主となる
1560年:今川義元が尾張国へ侵攻。
今川軍は、後の徳川家康が率いる三河勢を先鋒として織田軍の城砦を次々に陥落していきます。信長は1560年5月19日善照寺砦で4000人の兵を整え、今川の陣中に強襲をかけると今川義元の首を討ち取り、今川軍は退却しました。これが「桶狭間の戦い」です。
この戦いの後、今川氏から独立した松平元康は徳川家康と改名し、信長と家康は手を結びます。1562年には清州城にて正式に同盟を結び、この同盟は小牧・長久手の戦いまで続いたといいます。
1563年:美濃国攻略のために本拠地を小牧山城へと移す。
1567年:近江国の浅井長政と同盟を組む。妹・お市の方を長政の正妻に送り込む。
この前年には、木下藤吉郎に美濃国攻略の拠点として墨俣城を築城させています。この城は木下藤吉郎が3日で築城したという逸話が残っています。木下藤吉郎は後の豊臣秀吉です。そしてこの頃から「天下布武」の朱印を使い始めます。
1568年:朝倉義景の元家臣・明智光秀の仲介で足利義昭を奉じて上洛を果たす。
その後、足利義昭を室町幕府15代将軍にし、翌年には二条御所を建設、足利義昭の御所にします。また、伊勢国の神戸具盛を降伏させ、信長の三男である織田信孝を養子として送り込んだのもこの年です。
1570年:姉川の戦い
足利義昭を殿中御掟で諌めたことから対立関係となります。そして上洛命令に従わない朝倉義景攻めに向かいますが、浅井長政の裏切りにあい京都へと退却します。岐阜へ戻り軍を整えて再び朝倉・浅井と戦い勝利します。この二度目の戦いが姉川の戦いで北近江の姉川を挟んで戦いました。
1571年:浅井・朝倉軍を匿った比叡山を焼き討ちにする
1572年:足利義昭挙兵・甲斐の武田信玄上洛を開始
信長が義昭に対して送付した17条の意見書が、義昭の様々な点を批判したものだったため、信長と義昭の対立は抜き差しならない状況となり、義昭が挙兵します。その頃、甲斐の虎・武田信玄も上洛を開始します。武田は三方ヶ原の戦いで織田の同盟者・徳川家康を破ります。やはり武田騎馬隊は強かった….
1573年:武田信玄死去・室町幕府滅亡・浅井長政、朝倉義景自刃
信長は自分の子供を人質として、義昭と和解しようとしましたが義昭は応じませんでした。その後、今堅田城と石山城に幕府の軍を入れ、信長に反旗を翻しますが数日で陥落。
上洛を進めていた武田軍は、信玄の病状が悪化し甲斐へ撤退。信玄は4月12日に死去しました。
信長は京に入り知恩院に陣をはります。それに対し義昭も二条御所や槇島城に立てこもりますが降伏。信長は義昭を追放します。これにより室町幕府は事実上滅亡しました。
8月、刀根坂の戦いで朝倉軍を破り朝倉義景は自刃。9月には小谷城を攻略し、浅井長政が自刃します。
お市の方とその娘たちは、落城前に落ち延びて信長が引き取っています。
1575年:長篠の戦い・右近衛大将就任・家督継承
甲斐の武田勝頼が武田から離れ、徳川の家臣となった奥平貞昌を討つために貞昌の居城長篠城へ攻め込みますが苦戦します。その間に信長は3万の軍を率いて岐阜から出陣。三河の徳川軍8000人と合流、設楽原に陣をおきます。
この長篠の戦いで信長は、火縄銃を用いた三段撃ちをします。有名ですね。武田軍も銃には勝てなかったようで信長の圧勝に終わりました。
11月には権大納言・右近衛大将と立て続けに任命され、これ以降「上様」と呼ばれるようになり将軍と同等になりました。
さらに嫡男・信忠を濃姫の養子にし、織田の家督と直轄領を譲りました。実権は信長が握っていたようです。翌年には安土城の築城が開始されます。
1577年:右大臣になる
1578年:右大臣と右近衛大将辞任
1581年:高野山包囲
敵の残党を匿ったり、足利義昭と通じたりと何かと信長に敵対する動きを見せていた高野山。信長は使者を10人以上差し向けますが、殺害されてしまいます。そこで信長は高野山討伐にかかります。しかし、高野山も応戦したことで長期化してしまいます。
1582年:甲州侵攻、征伐・本能寺の変
2月1日、武田信玄の娘婿・木曾義昌が織田に寝返ると、2月3日に織田信長は武田領への本格的な侵攻を開始するため、家督を譲った信忠に大動員令を発令します。駿河から徳川家康、相模からは北条氏直、飛騨から金森長近、そして木曽から信忠がそれぞれ武田の領地に侵攻を開始しました。
3月8日信忠は、武田の本拠地である甲府を占領。3月11日には滝川一益が武田勝頼父子の首を討ち取り、武田氏は滅亡しました。
3月14日、信長は信忠を通じて届けられた首級の実検を行い、3月19日に高遠から諏訪の法華寺に入ります。
翌20日以降、武田の領地であった場所の領主を決めたり、国掟を発し、関所の撤廃、奉公・所領の境目などを定めています。
なんだか忙しそうですね。ついこの前まで戦っていたのに直ぐに次のことを決めて発したりと….。
5月15日、先の戦で駿河領を増やしてもらったお礼と、甲州征伐の戦勝祝いに徳川家康が安土城を訪れます。
この時、信長は明智光秀に家康の接待を命じ、光秀は15~17日の間家康を手厚くもてなしたそうです。
しかし、接待中に備中高松城を攻めている羽柴秀吉から援軍の要請が入ると信長は、明智光秀に援軍に向かうよう命じます。
5月29日、信長は中国遠征の軍を整えるために上洛し、あの本能寺にいました。
ところが、どういうわけか羽柴秀吉の援軍に向かったはずの光秀が軍を率いて京都へ進軍。
6月2日、明智美秀は本能寺を襲撃し、本能寺の変勃発。信長は100人ほどの手勢と共に自ら槍を手に応戦しましたが、圧倒的数の明智軍に敵うはずもなく、自ら火を放って居間にて自害。享年49歳でした。
この時、光秀は部下の信長への忠誠心が強かったことを考慮し、本能寺に信長がいることを部下には内緒にしておいたそうです。
「本能寺の変」後、光秀の娘婿・明智秀満が遺体を探しましたが、信長の遺体は発見されず、そのため様々な説が浮上しました。
当時の本能寺は織田の補給基地に使われていたため、「地下に掘られた隠し通路から脱出した」という説があります。生きのびていたら面白いけど、結局真相はわからないままです。
ちなみに2007年に行われた調査では、本能寺が城塞としての機能を持ち、謀反にも備えていたのではという指摘もあり、未だ調査中だそうです。