長篠の戦い


長篠の戦いは、信長が鉄砲隊で甲斐国の武田勝頼の騎馬隊を討ち破ったとしてとても有名な戦いです。

織田の鉄砲隊が「三段撃ち」をしたと授業で聞いた人も多いと思いますが、近年では三段撃ちはされていなかったという説が有力になっています。

織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした頃、織田と武田は同盟から友好関係にありましたが、信長と義昭の仲が険悪なものへと変わると義昭が信長に対して挙兵します。

織田軍VS武田軍

武田氏は義昭に応じて挙兵し、信長と同盟関係にあった徳川家康が治める三河国へと兵を向け、西上作戦を開始しました。

これにより、織田と武田は手切れとなりました。

しかし、西上作戦の途中で大将・武田信玄が病に倒れて死去したため、武田軍は甲斐へと撤退。

同1573年に一乗谷で朝倉氏を滅ぼし、小谷城で浅井氏を滅ぼした織田信長は義昭を京から追放します。

一方、信玄を失った武田氏では勝頼が家督を相続し、三河・遠江に向けて再挙兵、1575年には三河国へ侵攻し、長篠城を包囲しました。

長篠城の包囲により、武田軍と織田・徳川連合軍との戦いの火ぶたは切っておとされました。

武田軍約15000に対して長篠城には、500程の守備兵しかいませんでしたが、周囲を谷川に囲まれた長篠城の立地と城内にあった200丁の鉄砲などで武田軍の攻撃に何とか耐えました。
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蜜使の鳥居強右得衛門

兵糧蔵が焼失し、数日以内に落城してしまうのではないかという状況の中、鳥居強右衛門を岡崎城への密使として援軍を要請しました。

鳥居が岡崎城についた時、そこにはすでに信長率いる30000の大軍と家康の手勢8000が長篠城へ向けて出撃態勢を整えていました。

翌日にもこの大軍が長篠城救援に向かうことを知った鳥居は、急ぎ伝えるために長篠城へと引き返します。

しかし、城の目前で武田軍の兵士に見つかり、激しい尋問を受けることとなります。

密使となった時から死を覚悟していた鳥居は、尋問にも臆すことなく自らが長篠城からの密使であることを告げました。

鳥居の態度に感銘を受けた武田軍は、鳥居に磔(はりつけ)にするから城の前で「援軍は来ないから諦めて開城しろ」と叫べぶことで命を助けてやると取引を持ちかけるのです。

これに鳥居は承諾しますが、翌朝、いざ磔にされると「あと2~3日で数万の大軍が助けにくる。それまで持ちこたえよ」と逆の内容を叫んだのです。

鳥居はそのまま突き殺されましたが、これに士気を高めた長篠城の兵たちは、織田・徳川の連合軍が武田軍の包囲を撃破するまで城を守ったのです。

鳥居さんカッコいいですね。むしろ長篠の戦いのメインここじゃないですか?
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援軍の到着

信長と家康の連合軍は、長篠城の手前にある設楽原に陣を張り、信長は地形を利用して30000の軍勢を幾手にもわけ敵から見えないように配置しました。

さらに三重の土塁に馬防柵を設け、鉄砲隊を主力に武田の騎馬隊を迎え撃つ準備を整えます。

武田軍では軍議が行われ山県昌景、馬場信春らは撤退を進言したと言われていますが、勝頼は信長との決戦を決意し、3000の兵を長篠城の警戒に当たらせて残りは信長・家康が陣を張る設楽原へと向けました。

近くに武田軍が陣を張ったことを知った信長は、味方の損害を出さないように作戦を考えたと信長公記の8巻に書かれています。

5月20日の深夜、家康の重鎮である酒井忠次を呼び、弓・鉄砲など遠距離攻撃に優れた兵を2000程率いらせ、信長自身の鉄砲隊500などを加えた約4000の別動隊を組織し、鳶ヶ巣山砦を後方より奇襲を仕掛けました。

これにより長篠城の救出を果たし、5月21日早朝、本隊が陣を布く設楽原で武田軍が攻撃開始、戦は8時間ほど続きましたが、織田・徳川の連合軍の勝利にて幕を下ろしました。

武田方は名だたる武将が討死し、勝頼はわずか数百の旗本とともに高遠城まで後退し、上杉謙信と和睦を果たした高坂昌信と共に甲斐国へ帰還しました。


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