稲生の戦い
稲生の戦い(いのうのたたかい)は、織田信秀の死後に織田信長と弟・信勝の間で起きた家督相続争いで信長の青年期の中で有名な戦いの一つです。
稲生とは尾張国春日井郡で現在の名古屋市西区にあたります。
稲生の戦いが起こる前の尾張国の情勢は、一代で尾張国内外に勢力を伸ばした父・信秀が1551年に急死。
その後、嫡男であった信長が家督を継承。しかし、織田弾正忠家には対立する清洲城の尾張守護代・織田大和守家があり、弾正忠家内部に弟・信勝というライバルがいたのです。
信勝側についた重臣
1552年頃に織田大和守家は、信長との敵対関係をあらわにし信長は清洲方との戦闘を繰り返しました。その最中に信長の世話役であった平手政秀が自害し、この自害が信長を諌めるためだったとも言われ、信長が家督を相続したことに対してふさわしくないという風評がたってしまいます。
一方、他国との関係では美濃国の斎藤道三と会見し、その翌年1554年には重原城の山岡伝五郎を滅ぼした今川軍を「村木砦の戦い」で破りました。
この今川との戦いの際に敵対している清洲城の織田信友が主不在の那古野城を攻めてくることを予想していた信長は、斎藤道三に援軍を求め、道三は安藤守就以下1000人ほどの兵を派遣しています。
安藤が布陣して直ぐに信長は礼を述べに向かっています。信長様、律儀で礼儀正しいですね。大うつけではない気配が…。
信勝は信長が家督を相続した後、那古野城ではなく父・信秀が晩年を過ごした末森城に居住しました。
父・信秀の居城を継承した信勝には、柴田勝家や佐久間大学、佐久間次右衛門らの弾正忠家の重臣がつけられました。
信秀の生前に後ろ盾としていた信勝は、尾張内での統治権をある程度掌握していたとされ、信勝は弾正忠家においてかなり力をもっていたようです。
そして自らが弾正忠を名乗るようになりました。
信長の勝利
三河国との国境にある鳴海城の山口教継が謀叛を起こして今川氏に寝返り、1556年には美濃国の斎藤道三が、嫡子・義龍との「長良川の戦い」で討死、信長は大きな後ろ盾を失ってしまいます。それをきっかけに柴田勝家らは、信勝を擁立するために挙兵。信勝も信長の直轄領に砦(とりで)を構えるなど対抗する意思を見せていました。
このような信勝方の不穏な動きを信長は知り、信長は佐久間に砦を築かせると佐久間大学を砦へに置き牽制(けんせい)しましたが、柴田勝家らを迎撃、これを信長が迎え撃ち「稲生の戦い」が開戦します。
信長軍700人に対して信勝軍は約1700人。信長軍は戦上手と名高い柴田勝家に翻弄され、小豆坂七本槍の一人・佐々孫介ら有力な家臣が次々に討たれ苦戦します。
柴田勝家の本陣に迫った時には僅か40人ほどまで減ってしまいますが、織田信房と森可成が前線に立って戦うと柴田軍の兵士たちが逃げだしてしまいます。
信長軍は勢いを取り戻し、信勝方の林軍に攻めかかり、鎌田助丞・富野左京進ら主だった武将をはじめとする450人余りを討ち取り、信勝方は敗走しました。
信勝が再び謀反
その後、信勝方は末森城と那古野城に籠城しますが、信長は二つの城を城下に火を放ち焼き払いました。信長との戦いに負けた信勝は、信長と自身の母・土田御前の取りなしによって助命され、清州城で信長と会見して許されることになります。
また、信勝方として戦った林秀貞・柴田勝家・津々木蔵人も信長に謝罪し、忠誠を誓いました。
その後、信勝は再び信長に対して謀反を計画します。信勝を見限り信長に与していた柴田勝家によって情報が信長に流されており、信長が病気で寝込んでいると嘘の情報を信勝に流しました。
それを受けて信勝は信長のいる清州城を訪れましたが、そこで信長の命にて河尻秀隆らに暗殺されました。