姉川の戦い
信長系の映画・ドラマでも演じられることが多い「姉川の戦い」は、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉の連合軍による戦いになります。
この戦いをきっかけに延暦寺が焼き討ちにされ、信長の残虐非道なイメージが定着したような気もします。
戦い自体、それに付随して起こった出来事にもインパクトがあるため、信長の戦いの中では有名な戦いの一つでもあります。
決戦までの経緯
姉川の戦いが起こるまでの経緯ですが、織田信長が今川義元を討ち取って美濃国の平定に成功し、北近江の浅井長政とは妹のお市の方を嫁がせることで縁戚関係を結びました。浅井長政の援軍を得て、南近江の六角義賢父子を「観音寺城の戦い」で討ち取り、さらには殺害された足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛を果たすなど勢いに乗っていた信長様。
一方で朝倉義景は、足利義昭が上洛に消極的な義景を見限って信長のもとへ身を寄せた後、若狭国の守護・武田氏の内紛に乗じて介入します。
当主を自身の拠点である越前国の一乗谷へ軟禁し、武田氏の家臣の中には従属することを拒むものもいましたが、若狭国を支配下に置くことができます。
しかし、義景は次第に政務を他の者に任せ、自分は遊興にふけるようになります。
1568年9月に信長は足利義昭を奉じて上洛。義昭を足利将軍の座につけると義景に対して上洛する様に命じましたが、2度にわたる上洛命令を義景は拒否し、信長に従うことはありませんでした。
この義昭の上洛命令反故に対して1570年4月、信長は朝倉義景に叛意ありという越前国へ向けて挙兵する大義名分を得て徳川家康と連合軍を編成し、対朝倉義景の兵を挙げました。
板挟みになった浅井長政
この挙兵で一番可哀想だったのは浅井長政です。長政にとって朝倉家は同盟相手という縁があり、とくに長政の父・久政は朝倉氏との友好関係に固執しており、父の意見を無視にはできません。
また、織田信長は最も勢いのある同盟相手であり、長政の妻・お市の方の兄でもあります。
織田信長と朝倉義景の仲は冷え切り、そんな二人の板挟みになってしまったのです。
しかし、家督相続後も久政が強い発言権を持っており、同盟を結ぶ際の朝倉氏を攻撃しないという盟約を信長が破って挙兵していたため、長政は朝倉氏側につくことを決意します。
織田軍の勝利
1570年、信長が家康と共に琵琶湖の西岸を通過し、越前国に攻撃を開始すると長政は、織田・徳川連合軍を背後から急襲しました。これに対して信長軍は秀吉が殿を務め近江国を脱出、6月には近江国の姉川で織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は刃を交えました。
信長は虎御前山に陣を布き、森可成や柴田勝家、佐久間信盛らに命じて小谷城下を広範囲に渡って焼き払わせ一度引きます。
6月24日に小谷城から姉川を挟んで南にある横山城を包囲し、竜ヶ鼻に布陣すると徳川軍もそこへ合流し、6月28日未明、朝倉・浅井連合軍は軍を二手に分けて野村・三田村に布陣しました。
午前6時頃に開戦。戦いは激しいものとなりましたが、朝倉・浅井の軍勢に対して徳川家康が榊原康政に側面から攻撃する様に命じます。
その結果、朝倉軍が敗走、続いて浅井軍も敗走し、織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。