織田信長の都市伝説


織田信長といえば天下統一を目指した戦国時代の尾張の武将ですが、志半ばで本能寺の変が起きたことにより自害してしまいます。しかし、世の中には彼にまつわる都市伝説が数多く存在します。

嘘か実か真実は闇の中ですが、巷でまことしやかに語られる織田信長の都市伝説を紹介していきます。

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織田信長のデスマスク

デスマスクとは「死者の顔」を石膏で型どった石膏像のことですが、現存しているのは世界でも一握りの権力者のものだけだと言います。

デスマスクは「西洋の文化」という色合いが濃いように思えます。それを織田信長が残していたというのです。

しかし、デスマスクというのは死者の顔に石膏を塗り、型をとるもの…本能寺の変で自害したとされる織田信長ですが、その遺体は発見されなかったと言われています。

織田信長,都市伝説それなのになぜ織田信長はデスマスクをつくることが出来たのでしょうか?

信長には弥助というモザンビーク出身の家臣がいたそうです。海外出身の家臣がいたということにもビックリですが、織田信長はその弥助に本能寺の変の折「首を持って脱出しろ」と命じていたらしいのです。

本能寺の変で信長が自害したあと、弥助によって首は運ばれ、前田玄以が陶芸家の加藤市左衛門にデスマスクをつくらせたということです。

本能寺の変が起きた天正10年6月2日、弥助も本能寺に宿泊しており、本能寺の変に遭遇しています。

信長が自害した後は、二条御所に行き戦って明智軍に捕縛されましたが、命は取られずに南蛮寺に送られました。

弥助から首を受け取ったとされる前田玄以は、思慮深く私欲のない性格で元々は僧侶でした。尾張の小松原寺の僧侶から比叡山延暦寺に入り、その後は織田信長の臣下となった人物です。

彼は本能寺の変の折に信忠と共に二条御所にいました。しかし、信忠の命令で嫡男三法師を連れて京都から脱出し、美濃岐阜城、尾張清州城に逃れています。

最終的に織田信長の首を受け取り、デスマスクを作ったとされる尾張の陶工・加藤市左衛門は、天正2年に織田信長から居住地域での焼き物の生産を許可する旨の朱印状をもらった人物。瀬戸焼の陶祖とされる人物です。

こうしてみるとできなくはないようですね。実際に織田信長のデスマスクと言われているものは存在しますが、それが本当に彼の顔なのかは不明です。


本能寺の変…本当の黒幕は?

秀吉の援軍として向かう途中、本能寺に100人程の手勢と宿泊していた織田信長を明智光秀が奇襲により、自害に追い込んだとされている本能寺の変。じつはこれには黒幕がいたというのです。

その黒幕にもいくつか諸説ありますが代表的なものを紹介します。

黒幕は豊臣秀吉説

豊臣秀吉これは信長亡き後一番得をするのが、豊臣秀吉だからということから黒幕は秀吉だという説。本能寺の変の後、直ぐに取って返し明智光秀を討ち取った秀吉。

確かに自分が黒幕として動かしていたのであれば、そうすることも可能だったのではないでしょうか。

仮に黒幕が秀吉だったとしたら、援軍が必要だったということ自体が怪しくなってきます。

本当は必要がなかったにも関わらず、信長に援軍を出させ、明智光秀を利用し信長を自害に追い込み、自分はさも主君の敵を討ったという体で天下統一をしてしまったというあらすじですね。

当時の本能寺は、織田の物資を補給するために使われていたそうですから、本能寺に宿泊することもわかっていたでしょうし、何かと信長に対して腹に抱えたものがある光秀なら、謀反を起こしても怪しまれることもありません。

さらにその主君の敵を討ったということで秀吉の株は上がったでしょう。もしかすると秀吉は信長の遺体が見つからないことさえも計算の上だったのかもしれませんね。

黒幕は徳川家康だった説

徳川家康は、ちょっとした手違いで幼少の頃に織田信長と共に生活していたことがあり、織田信長とはずっと同盟関係にありました。そんな徳川家康が黒幕だったという説もあります。

徳川家康家康は信長の命令により、長男の松平信康を切腹させられていますし、それなりに恨みもあったように思われます。

そして明智光秀も織田信長から嫌がらせを受けていたみたいですので、明智光秀も織田信長を恨む理由があったのです。

また、光秀は下戸であったため、信長に勧められた酒を辞退したところ、「わしの酒が飲めぬのか。ならばこれを飲め」と刀を突き付けられたという話もあります。

さらに武田家を滅ぼした徳川家康を労う為に開いた宴で光秀に家康接待を命じたが、光秀の接待が気に入らなかった信長は、森蘭丸に光秀の頭を鉄線で叩かせたなど、本当の話なら光秀がいつか仕返ししてやろうと思っていたとしても仕方がありませんね。

また、この説については当初信長が本能寺に家康を呼び寄せ、光秀に家康暗殺を命じていたが光秀が裏切り家康手と組んで、信長の計画を利用して謀反を起こしたという説もあります。

後日談として光秀の首級とされるものは、すべて顔の皮が剥がされていたため、本人のものと判別がつかず、本当は山崎の合戦後も光秀は生きており、徳川家に仕えた天海和尚の正体は光秀だったという説もあります。


朝廷黒幕説

信長は足利将軍家の嫡流である足利義昭を奉戴して上洛を果たし、15代将軍に義昭を擁立しています。その後、義昭と対立関係になり、1573年7月に事実上室町幕府を滅亡させ、年号を天亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し実現させます。

ここからの朝廷と信長の関係は、微妙だと私は思います。第一次信長包囲網の折には、正親町天皇に奉聞して勅命を仰ぎ、その勅命をもって浅井・朝倉両氏との和睦に成功しています。

このこともあってか12月には信長から譲位の申し入れがあったそうですが、結局実現されないまま信長は本能寺の変に倒れます。

天正9年に行われた京都御馬揃えでは、織田軍の力を朝廷に見せつけ、朝廷への圧力、示威行動であったとされる一方、正親町天皇は信長側の好待遇に喜んで手紙を送り、息子の信忠にも褒賞を与えています。

周りには信長が天皇や朝廷のことを敬っていると見せかけて、朝廷を掌の上で操ろうとしていたのではないでしょうか?しかし、正親町天皇の資料を読むと、どちらかというと信長に対して好意的な感じがします。

馬揃えの際には「今度のことは筆にも言葉にも尽くしがたく、唐の国にもないでしょう」と仰せになり、さらに本能寺の変の折には、二条御所にいた正親町天皇の皇子・誠仁皇子は、明智光秀に信長が死んだ際、自分も後を合って切腹すべきかどうか質問したとフロイス日本史には記されています。

このことから、少なくとも天皇と信長は良い関係を保っていたように思われます。その状況を朝廷側から考えた場合、信長は天皇を利用して「朝廷に成り替わろうとしているのでは…」と思われても不思議ではありません。

朝廷にとって信長は、自分たちの地位を脅かす存在だったのかもしれません。

 

本能寺の変で信長は死んでいなかった説

本能寺で明智光秀による謀反によって自害したとされている織田信長ですが、本能寺の変で死んでおらず、生き延びていたという説もあります。

これは以前にテレビで見たのを薄っすら記憶しているのですが、本能寺は当時織田軍の武器や火薬などの補給地として使われていました。

そのため、本能寺の地下には物資を運搬するための隠し通路があり、織田信長はその通路を使って脱出していたというものです。

いざという時のための脱出路があったとしても不思議ではないような気がしますが、これも含め生存説は織田信長の遺体が「本能寺の変」の後に発見されていないことによるものです。生き延びていたなら面白いのですが、その後の行方はわかりません。

いかがだったでしょうか?織田信長にまつわる都市伝説の一部を紹介しました。時が経てば経つほど真実は遠くなり、闇の中へと埋もれていきます。

彼方に埋もれた時代の真実が科学の力によって、再びこの世に舞い戻る日が来るのでしょうか…

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