織田信長の城
有名な戦国武将といえば、独眼竜の伊達政宗や六文銭の旗印真田幸村、江戸幕府の徳川家康、足軽から成りあがった豊臣秀吉など沢山いますが、やはり忘れてはいけないのは、泣かないホトトギスは殺してしまう第六天魔王・織田信長でしょう。
織田信長といえば歴史の教科書でも数多くのエピソードがありますが、そのうちの一つ織田信長の城について詳しく解説していきます。
織田信長の安土城
織田信長といえば、やはり有名な城は安土城でしょう。様々な歴史的場面に出てくるのは清州城なのですが、清州城は斯波義重が築城しのちに織田大和守家が居城としていました。1555年に織田信長と織田信光によって織田信友が殺害され、織田信長が那古野城から清州城に移り住み、桶狭間の戦いに出陣したり、徳川家康と同盟を結んだり、本能寺の変で信長が倒れた後に後継ぎを決める清州会議が行われたりしました。
歴史が動いている場所ですね。しかし、やはり織田信長の城といえば安土城です。
なぜなら築城したのが織田信長だからなのですが「信長公記」に尾張の大うつけと呼ばれ、町の若者たちと戯れていたとか、幼少から奇妙な行動が多かったと記される織田信長のセンスがいかんなく発揮されています。
安土城の築城開始は1576年
安土城の築城は、琵琶湖の沿岸に信長自身が指揮をとり開始されました。この時期は前年の1575年に権大納言に任命され、さらに征夷大将軍に匹敵する右近衛大将も兼任するようになりました。これにより朝廷から「天下人」として公認されたも同然です。政治と織田全軍を総括する立場は、そのままに信長は家督を信忠に継承しました。
そして翌年には安土城を築城開始します。思い立ったら直ぐに動く行動派なのですね。
五層七重の絢爛豪華な城
信長は、岐阜城を家督を継承させた信忠に譲り、安土城に移り住みました。ここを拠点として信長は天下統一へと本格的に乗り出します。この信長の居城安土城は、イエズス会の宣教師が「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城と肩を並べるものである」と母国に手紙を送ったほどで、地下1階地上6階建てで天守の高さは約32m。石垣を入れたらもっと高いでしょうね。
日本建築の場合木造の高層建築を建てる場合、中央に心柱を立てるのが一般的なのに対し、安土城にはこの柱の礎石がなく、この場所には天守指図から推測すると仏教の宝塔があったようです。
通常の天守閣は松本城などを登ってみるとわかるのですが、居住するのには適していません。
しかし、安土城は居住性に優れていて、信長はこの天守で生活していたと思われます。
日本人初の高層建築物に住む信長
城郭の中には、摠見寺という堂塔伽藍を備えた本格的な寺院があり、百々橋口から城内へたどり着くためには、必ずこの寺院の境内を通らなければならなかったのです。この入口は普段から城に入ろうとする人が使っていた道だと推測されています。本格的な寺院があったのは歴史上で安土城だけです。意外にも宗教色が強いですね。
この城は戦国武将の城にはあるまじきことがあります。なんと籠城用の井戸や石落としなど戦うための設備は乏しく、大手門からの道も6mと幅広く直線が続きます。
本丸御殿は、天皇を迎えるための施設だったとも考えられ、軍事利用よりも政治の拠点という感じなのでしょうか。
残念ながらこの安土城は、1582年の「本能寺の変」が起きて間もなく原因はわかりませんが焼失してしまいました。今は石垣など一部の遺構を残すだけです。
伊勢安土桃山文化村に安土城を実物大で再現したものがありますが、やはりこの目で本物の安土城を見てみたかったですね。