織田信長の家臣たち


弥助

生没年不詳

この弥助は、戦国時代に日本へ来日した宣教師が連れてきた人物で織田信長への献上品だったそうです。

弥助は黒人で信長は彼をたいそう気に入り、そのまま自らの家臣として召し抱え、気に入り過ぎていずれは城主にしようとしていたとも言われています。

本能寺の変の後、弥助は信長の首を持ち出し、デスマスクを作ったとか…。このデスマスクは西山自然歴史博物館に所蔵されており、信長のデスマスクであるという確証はないものの浪漫を感じますね。

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森蘭丸

1565年~1582年6月21日:享年17歳位

超有名小姓・森蘭丸は弟たちと共に織田信長の小姓として召し抱えられ、本応寺の変で信長と共に戦い、明智方の安田国継に討ち取られました。

信長の御遣いに出ることもあり、とても有能な人物であったようです。信長が側近や諸大名に対して自慢できるものBEST3に入っています。

千利休

1522年~1591年4月21日:享年69歳位

茶の湯を確立した人物として知られる千利休。千利休は堺で倉庫業を営む家に生まれ、若い頃から茶の湯を嗜み、信長が堺を直轄地とした時に茶事とつかさどる役目を持つ茶の師匠・茶頭として信長にやとわれました。

本能寺の変で信長が倒れた後は秀吉に仕えています。しかし、1591年に詳しくはわかっていないものの秀吉の逆鱗に触れ切腹させられました。

佐久間信盛

1528年~1582年2月18日:享年54歳位

信長が幼い頃からの重臣。家督相続が起きた際にも「信長推し」を貫いた人物です。

信長の弟・信行が謀叛を起こした際は信長方として戦い、特に殿軍の指揮を得意としたことから「退き佐久間」の異名をとり、筆頭格の家臣として数々の戦に参戦しました。

しかし、「一乗谷の戦い」では朝倉義景の軍の追撃を怠り、信長に叱責され、それに対して泣きながら口答えをしたため、さらに怒られたそうです。

その後、石山本願寺攻めでも4年間「特に何もしない」という偉業を成し遂げ、信長が朝廷を通じて本願寺と和睦した後、19ヶ条の折檻状を突き付けられ、息子と共に高野山へと入山しますが、高野も追われ熊野で亡くなります。この頃にはお付きの者もなく、寂しい最期だったようです。

柴田勝家

1522年頃~1583年6月14日:享年61歳位

信長の父・信秀の代から織田家に仕え、信長が家督を継承した頃には織田家家臣の中でも重鎮でした。

信秀の死後、信長の弟・信行に家老として仕え、林秀貞と共に信行に家督を継がせようと画策しますが信長との戦い敗れ、土田御前の嘆願により、赦免されてからは信長に仕えました。

1568年頃から信長に重用されるようになり、本能寺の変が起きた時にも信長の命で上杉方の魚津城・松倉城を攻めていました。

清須会議では家督を継いだ信長の嫡孫・三法師を信雄と信孝が後見し、さらにそれを支える役目に秀吉・丹羽長秀・池田恒興と共に就き、この会議で諸将の了承を得てお市の方を妻に娶りましたが、1583年の「賤ヶ岳の戦い」で秀吉に敗れ、お市の方と共に自害し果てました。


丹羽長秀

1535年10月16日~1585年5月15日:享年51歳

元々は斯波氏の家臣であった丹羽氏ですが、長秀は信長に仕え19歳で初陣。1573年には若狭一国を与えられ、織田家の家臣の中で一番に国持ちの大名となった人物です。

高屋城の戦い、長篠の戦、一向一揆征伐などで戦功をあげ、安土城築城の際には普請総奉行を務めました。また、佐久間信盛が失脚した後、柴田勝家に次ぐ二番家老となり、織田家の双璧と呼ばれました。

本能寺の変後は羽柴軍に参加して明智軍と戦い、清須会議では秀吉が推していた三法師を支持し、三法師が家督を継いだ後は三法師と後見を支える役割を果たしました。

「賤ヶ岳の戦い」では秀吉軍に属し、若狭に加え越前の一部と加賀の一部が与えられています。1585年4月寄生虫による病で死去。

村井貞勝

生年不詳~1582年6月21日

織田家の家臣ですが京都所司代という役職についていた人物です。戦など派手に戦功をあげたということもあまりなく影が薄い…しかし、行政手腕に長けていた人物で目立たないだけで実は活躍していた人です。

足利義昭が京都から追放された後、京都所司代として京都の治安維持や朝廷・貴族との交渉、その他の京都に関係する行政の全てを任されていました。

信長・終焉の地である本能寺も1580年に信長の京都での居所として村井が普請し、翌年には出家。本能寺の向かいに自邸を構えました。

本能寺の変の際には自邸におり、信忠が滞在していた妙心寺へ駆け込み二条御所への移動を提言、貞勝自身も二条御所で戦い討死しました。

佐々成政

1536年2月6日?~1588年7月7日:享年52歳位

1560年に家督を継ぎ城主となった成政は、馬廻から戦功を重ねて頭角を現した叩き上げ系武将。

家督を相続した翌年には池田恒興と共に「森部の戦い」で敵将を討ち取るという大手柄をたて、「姉川の戦い」では殿軍にて活躍。

1575年には柴田勝家の与力として越中国に小丸城を築城し、「一向一揆」や上杉氏に対する越中国平定に携わりました。

1585年秀吉により越中国の領土を没収され、妻子と共に大坂に移住し御伽衆として秀吉に仕えました。1587年には九州征伐で武功をあげ、肥後一国を任されます。

しかし、肥後国人一揆の叱責を受け、摂津国尼崎の法園寺で切腹しました。

前田利家

1537年?1月15日~1599年4月27日:享年62歳位

14歳の頃から信長に小姓として仕え、青年時には「槍の又左」と呼ばれるほどの槍の名手でした。

柴田勝家の与力として活躍し、本能寺の変により信長が死去した後は羽柴秀吉に仕え、豊臣家の家老として加賀国と越中国を任されました。

豊臣政権の五大老の一人として秀吉の死後は、武断派と文治派の仲裁役を務め、覇権を奪おうとする徳川家康を牽制し続けましたが、秀吉が死去して8ヶ月後に病死しました。


不破光治

生没年不詳

美濃の守護大名であった土岐頼芸の家臣で西保城の城主。早くから美濃国の戦国大名・斎藤道三に仕え、稲葉氏・氏家氏・安藤氏の西美濃三人衆と並び斎藤家の有力家臣でした。

斎藤氏滅亡後は信長に仕え、足利義昭の呼びかけに応じた信長が上洛を決意した時や上洛戦後などには義昭を迎えに派遣されました。

その後、大河内城の戦い・小谷城攻め・志賀の陣・槇島城の戦い・一乗谷の戦いなどに参戦。1575年には越前一向一揆平定の戦に参陣、平定後は佐々成政・前田利家と共に柴田勝家に対する目付として府中三人衆と呼ばれました。

加賀国平定後は京都御馬揃えに参加しましたが、上杉景勝の越中国侵入の知らせを受け出陣します。

基本的に柴田勝家の指揮下でしたが、固定されていたわけではないようです。越前国にて死去したようですが、没年には諸説あり1580年・1581年・1583年などと言われています。

明智光秀

生年不詳~1582年7月2日

言わずと知れた本能寺の変を起こしたと言われる人です。美濃国の斎藤氏に仕えていましたが、父・道三を討った斎藤義龍に明智城は攻め落とされ、光秀は自身の本拠地を亡くしました。

その後、朝倉義景の居城である一乗谷城の山向こうに明智光秀の館跡があることから、朝倉氏を頼って一乗谷にいたものと思われます。

1566年に足利義昭が朝倉義景を頼って亡命してくると義昭の幕臣となり、上洛を望む義昭によって信長への仲介役となります。

三好三人衆に義昭が襲撃された際もそれを撃退し、信長から二条御所の普請を命じられたり、京都奉行に任ぜられるようになりました。

1571年には比叡山の焼き討ちで武功をあげ、信長から近江国に5万石を与えられると義昭とは、袂を別ち信長の直臣になり数々の戦に参戦。京都御馬揃えでは責任者を任されるようになりました。

一族離散に遭いながらもすごく出世した人ですね。1582年6月21日何故か本能寺の変を起こし、主君・織田信長を倒しました。

その後、13日間天下人となりますが、羽柴秀吉・池田恒興・丹羽長秀・織田信孝らに山崎の戦いで討ち取られました。首実検に持ち込まれた首級は3つあり、どれも顔の皮が剥がされていたそうです。

一説には村井貞勝一門の村井清三によって信孝の元に届けられ、明智軍勢の首と共に本能寺にさらされたとか、光秀の娘・細川ガラシャによって弔われたとも言われています。

細川藤孝

1534年6月3日~1610年10月6日:享年77歳

細川藤孝は元々室的幕府13代将軍足利義輝に仕えていましたが、義輝の死後は15代将軍足利義昭の擁立に尽力します。

当初、一乗谷の朝倉義景を頼って越前へと行きますが、その後明智光秀を通じて義昭を奉じて上洛するよう信長に助力を求めます。信長がそれに応じて1568年上洛すると藤孝もこれに従い入京。

義昭と信長の中が険悪になると軍を率いて上洛した信長を出迎え、長岡藤孝と名字を改め信長の家臣となりました。

その後、光秀の与力として戦功をあげ、1578年には信長の勧めで嫡男・忠興と光秀の娘・珠(後の細川ガラシャ)と婚儀がなりました。

丹波国の南半分の領有が信長から認められ、宮津城を居城とし甲州征伐にも参戦。余談ですが信長から知多半島で獲れた鯨を御裾分けしてもらっています。

1582年に本能寺の変が起きると、主君・信長と息子の嫁の父・光秀の板挟みになることもなく、光秀からの要請を断り、剃髪して家督を忠興に譲ると自らは田辺城に隠居し、幽斎玄旨と名乗りました。

光秀が秀吉に討たれてからは秀吉に重用され、紀州征伐や九州征伐に武将として参戦。秀吉の側近の文化人の一人でしたが、徳川家康とも交流があり、秀吉の死後は家康に与し、石田三成が挙兵した際には出陣中の息子に代わって田辺城での籠城戦を行い、関ヶ原の戦い後、幽斎は京都で晩年を過ごし1610年8月20日に京都の自邸で死去しました。


滝川一益

1525年~1586年10月21日:享年61歳位

いつ頃から信長の家臣となったのか不明ですが、一益の親族とされている慈徳院が信長の嫡男・信忠の乳母であったことから、1555年頃に信長に仕えていたのではと考えられています。

石山合戦、一乗谷城の戦い、長篠の戦いなどに参戦し、長島の一向一揆鎮圧の際には水軍を率いて海上から援護射撃を行い、長篠の戦いでは鉄砲隊の総指揮にあたるなど武功をあげました。

甲州征伐後、関東御取次役を命じられ、武田の遺領である上野国と小県郡及び佐久郡を与えられるが、本当は領地よりも茶器が欲しかった一益は、京都の茶人に宛てた手紙の中でその悔しさを書き記しています。

信長の後継者を決める清須会議に出席できなかった一益はその地位を落とし、「賤ヶ岳の戦い」では、信孝・勝家の自害により孤立、籠城して奮闘したものの降伏し、剃髪して出家した後は丹羽長秀の元に身を寄せ蟄居しました。

しかし、小牧・長久手の戦いでは、秀吉から呼び戻されて参陣しましたが占拠した蟹江城を徳川方に包囲され、半月以上籠城し頑張りましたが開城。1586年10月21日(天正14年9月9日)死去。

羽柴秀吉

1537年3月17日~1598年9月18日:享年61歳位

足軽から天下人にまで上り詰めた人で信長・家康と並び三英傑の一人。農民あるいは足軽の家に生まれたと言われていますが、天正記の記載から天文6年2月6日の生まれではないかと言われています。

有名武将でも生まれた日が不明な方もいる中で、農民や足軽の家なのに生誕が予想ができるのは珍しいことのような気がします。

木下藤吉郎時代には、今川氏の直臣飯尾氏の配下・松下氏に仕えていたようですが、1554年頃から織田信長に仕え、清州城普請などを率先し引き受けて、大きな成果を上げるなど徐々に頭角を現します。

1561年この頃、足軽組頭となっていた藤吉郎は、浅野長勝の養女・ねねと結婚。

1564年、美濃の斎藤道三の孫・斎藤龍興との戦いでは、松倉城主・坪内利定や鵜沼城主・大沢次郎左衛門を降伏する様に工作し成功、信長からも有力武将として見られるようになりました。

坪内に宛てた知行安堵状の中に「秀吉」という名前が書かれていることから、この頃から秀吉を名乗るようになったのではないでしょうか。

1568年には明智光秀・丹羽長秀とともに京都の政務を任せられるまで出世し、1569年には毛利氏が九州で大友氏と戦っている隙をついて、出雲国を奪還しようとした尼子氏の残党とそれを支援した山名氏を脅かすため、信長の命で但馬国へ向かいます。

この時、秀吉は2万の大軍を率いた大将となり、わずか10日間に18もの城を落とし京へ帰還したということです。

活躍めざましい秀吉は、朝倉義景討伐にももちろん参戦。浅井と朝倉に挟み討ちされた際には、明智光秀らとともに殿軍を務め、功績を上げました。

続く「姉川の戦い」でも戦功をあげ、羽柴姓へと改め浅井氏の旧領にて長浜城主となりました。その後も「長篠の戦い」や「信貴山城の戦い」、「中国地方攻略」などで活躍し、信長の四男を養子に迎え、さらに得意の兵糧攻めで次々と功績を上げます。

本能寺の変後、中国大返しで池田恒興や丹羽長秀と共に明智光秀を討ち、京都での支配権を握ると後継者を決める清州会議では、信長の孫・三法師を推し後見に信孝をつけることに決まりましたが、柴田勝家との対立が激しくなります。

その後、「賤ヶ岳の戦い」へと発展し柴田勝家に勝利し、信孝は自害。一益も降伏したため、織田家の中でも有力であった家臣たちを葬ることで秀吉は第一の家臣の座を手に入れました。

1583年、築城の名手・黒田孝高を総奉行として大坂城を築城。同年からの小牧・長久手の戦いで池田恒興父子や森長可は戦死。佐々成政は剃髪して降伏。

1586年9月に豊臣姓を正親町天皇から賜り、12月太政大臣に就任、豊臣政権が確立しました。豊臣政権下で色々やっていますが、信長様関連ではないので割愛します。1598年8月18日死去。

織田信孝

1558年4月22日~1583年6月20日前後:享年26歳

織田信長の三男。側室の子で1568年に降伏した神戸城城主の神戸具盛の養嗣子となりました。養父の具盛と不仲になってからは、信長により具盛が隠居・幽閉させられると実質的に神戸の家督を相続。

それに反発した旧臣を静粛し、その後も神戸家に仕えた家臣団を神戸四百八十人衆と称し、信長の命で神戸検地を行い、楽市楽座を設けるなど領地経営に力を入れ、神戸城下は大いに栄えました。

初陣であったと考えられているのが1574年の「第三次長島一向一揆攻め」で、長島を平定してからは伊勢国を滝川一益・長野信包・北畠信雄とともに4人で分割統治し織田家の遊撃軍団として転戦。

1577年、織田家の家督を相続した兄・信忠の指揮下で雑賀攻めに参加します。

信忠の下にありながらも父・信長の側近としても活動し、京都所司代・村井貞勝の補佐も務めました。何だかとても有能な人っぽいですね。

信孝は本能寺の変が発生した当時、寄せ集めの軍を率いて四国へ遠征している軍への補給に向かう所でした。まさに四国へ渡ろうとしていたその日の早朝本能寺の変が勃発、その知らせが届くと寄せ集めだった兵は次々に逃亡。

本能寺の変に関与していると噂があった明智光秀の娘婿・津田信澄を殺害、これにより河内国のあらゆる有力者が信孝を認めるに至りました。

秀吉が中国大返しで明智軍を追うと少し遅れて摂津国で合流し、山崎の戦いで父・信長の仇を討つことに成功しました。6月14日、村井貞勝一門の村井清三によって光秀の首級と胴体が届けられ、本能寺に明智の軍勢の首と共に晒させました。

その後、信孝は京を去り、情勢の鎮静化に努めました。清州会議から信孝は席を外されて出席することはできませんでしたが、家督を継いだ三法師の後見人を務めることとなりました。

清須会議後、安土城へ移ることになっていた三法師を岐阜城へ留めていたことから謀反と見なされ、秀吉方と戦に発展。家臣が次々と寝返る中、信雄の命令で切腹させられました。

この時、信孝は腸をつかみだすと床の間に飾られていた掛け軸に投げつけたと言われており、その掛け軸と切腹に使用した短刀は安養院に安置されています。


織田信雄

1558年~1630年6月10日:享年73歳

織田信長の次男。伊勢国北畠家との和睦条件として北畠具房の養嗣子となり、元服した後は北畠具豊と名乗り、北畠軍を率いて第三次長島侵攻に参戦。1575年には北畠の家督を相続し、家督相続後は信意と名を改めました。

1576年、滝川雄利らに命じて北畠具教とその息子2人、さらには北畠家の家臣14人を殺害し、信意本人も田丸城に北畠一族を饗応と偽って呼び出し謀殺、その後、北畠氏の南伊勢の勢力は信意の権力の基盤となりました。

1577年には兄・信忠の下で紀州征伐に従軍し、石山本願寺攻めや播磨国攻めに従軍しました。

1579年には信長の許可がないまま伊賀国に攻め入りましたが大敗。敗走の殿を務めた柘植保重が討ち取られ信長に「親子の縁を切る」と脅され怒られました。

清州会議では二条御所で討死した兄・信忠に代わって織田家の後継者になろうとするものの、家督は三法師が継ぐことになり、信意は後見人に治まりました。

信長の遺領の内の尾張・伊賀・南伊勢を相続した際、名字を織田姓に戻し名も信雄としました。

清須会議後、台頭してきた秀吉と柴田勝家・織田信孝による「賤ヶ岳の戦い」が勃発し、信雄は秀吉方につき、信孝の岐阜城を攻めて降伏させ、尾張に送る途中で切腹させます。

北伊勢と伊賀を加増され三法師の後見として安土城に入城しましたが、すぐに秀吉との関係が悪化し、小牧・長久手の戦いが起こりますが、秀吉と敗北し講和を結ぶと以降は秀吉に臣従しました。

大阪冬の陣直前に徳川方につき、領地の産業育成などに力を注ぎ、京都へ隠居して後は茶の湯や鷹狩など趣味を満喫し1630年4月30日に京都で死去。

池田恒興

1536年~1584年5月18日:享年49歳

織田信長の乳兄弟。幼いころから織田家に小姓として仕え、信秀亡き後は信長に仕え、信長の長男・信忠の指揮下に入りました。

桶狭間の戦いや美濃攻略などに従軍し、姉川の戦いでの活躍により犬山城の城主となりました。

その後、比叡山の焼き討ち、長島一向一揆攻めなどにも参陣し、甲州征伐の際には息子二人を出陣させ、自身は留守となる摂津国を預かるよう信長の命を受けました。

本能寺の変で信長が倒れた時は、中国大返しによって明智討伐に向かった秀吉と合流し、山崎の戦いで5000の兵を率いて右翼先鋒を務め、明智軍を討ち破りました。

清須会議では、秀吉・丹羽長秀と共に信長の嫡孫・三法師を推し、三法師が家督を継ぐと勝家や長秀と共に後見と三法師を支える役目につきました。

摂津国内の大坂・尼崎・兵庫に12万石を領有し、賤ヶ岳の戦いには参戦していないものの美濃国内に13万石を拝領し、大垣城に入城しました。

小牧・長久手の戦いでは秀吉方につき、娘婿の森長可らと共に三河国へ攻め込もうとしましたが、合戦の前半で落馬したことが災いし討死しました。



 

外様大名

外様大名とは、元は信長に敵対していた武将で途中から信長に仕えた大名です。

荒木村重

池田氏の家臣でしたが、1571年に信長の家臣となりました。のちに謀反を起こし、城に残した女子供が悉く信長によって殺害されます。信長が本能寺で死去した後に茶人として復活。

九鬼嘉隆

九鬼氏第8代当主。九鬼水軍を率いた水軍武将で、滝川一益の仲介で信長に仕えるようになり、以降は信長の御抱え水軍として、信長の援助の下鉄甲船を建造、毛利水軍600隻を討ち破りました。

余談ですが、関ヶ原の戦いにも参戦していた九鬼嘉隆。嘉隆は西軍、息子の守隆は東軍にわかれ、海上で戦うふりをしていたそうです。

真田さんのところも分かれて戦っていましたが、戦うふりって…..東軍が勝利したため、一応西軍に属していた嘉隆は息子に迷惑がかかることを嫌って自害したそうです。

松永久秀

元は三好氏に仕えていました。1568年に信長が足利義昭を奉じて上洛してくるといち早く降伏し、名目上は幕臣として京都で活躍しました。

金ヶ崎の戦いでは信長の窮地を救いますが、実は3回も信長に反逆しています。その度に名物と言われるような茶器の名品を差し出すなどして許されているラッキーな人。最期は平蜘蛛茶釜を割り、信貴山城の天守に火を放ち自害しました。

浅井長政

お市の方の旦那様です。15歳のときに六角氏の重臣・平井定武の娘と結婚し、六角氏に服従することに疑問を抱いていた家臣たちが長政の父・久政を強引に隠居させ、長政は家督を相続しました。

その後、六角氏からの離反を明確にするため、平井定武の娘と離婚し、信長の妹・お市の方と婚姻し、信長と同盟を結びました。

しかし、信長が朝倉氏の本拠地・越前国に侵攻すると信長から離反し、朝倉方につきます。長政は姉川の戦いで敗れ、残党を匿っていたことから比叡山は焼き討ち、一乗谷で朝倉氏は滅亡。

長政は自身の本拠・小谷城を信長軍に囲まれ、信長からの再三の降伏を勧める使者も断り続け父・久政が自害した数日後に自害。

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