織田信長と池田恒興


池田恒興は織田家の重臣

織田家の重臣・池田恒興(いけだつねおき)は池田恒利と養徳院の間に生まれ、幼いころから小姓として織田氏に仕えていました。

母の養徳院は織田信長の乳母であり、織田信長と池田恒興の関係は乳兄弟にあたり、信長の方が2歳ほど年上です。養徳院は後に信秀の側室となります。

恒興は「桶狭間の戦い」や「美濃攻略」などに参戦し、1570年朝倉・浅井との戦いである「姉川の戦い」でも活躍しました。その武功を受け犬山城主となり1万貫をあたえられています。

その後も「比叡山延暦寺の焼き討ち」や「長島の一向一揆」、「槇島城の戦い」などにも参陣しました。

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恒興は兵庫城を築城

武田信玄が西上作戦中に病没後、恒興は武田氏の家督を継いだ武田勝頼に奪われた明知城の抑えを任ぜられ、東美濃の小里城に入城しました。

1578年10月、別所氏と織田軍との戦い「三木合戦」において、羽柴秀吉の軍に加わっていた荒木村重(利久十哲の一人)が有岡城で突如信長に対して反旗を翻します。

一度は明智光秀らに説得され、釈明のために安土城に向かいましたが途中で伊丹に引き返しました。

その後、旧知の中であった秀吉が黒田官兵衛を有岡城に使者として送り翻意を促しましたが、村重は官兵衛を拘束し、有岡城に籠城しました。

1年間におよび織田軍相手に抗戦しましたが側近が信長方に寝返り、戦況が不利になると単身脱出して尼崎城へと移ります。

その後、有岡城に残された家臣や妻子を見捨てて逃げ、残された女房衆は見せしめのために殺害されました。

1580年に有岡城の支城であった花隈城を攻め落とし、その功としてこの地を与えられ、恒興は兵庫城を築城します。1582年3月に行われた甲州征伐では二人の息子を出陣させ、恒興自身は摂津の留守を任されました。


恒興の最期

6月の本能寺の変では信長が明智光秀の謀反に倒れると秀吉の中国大返しに合流し、山崎の戦いで先鋒を務めて明智光秀を破りました。

織田家の後継者を決める清須会議では、柴田勝家らに対抗して秀吉とともに信長の嫡孫・三法師を推し、領地の配分は摂津国内に12万石を拝領します。

1583年の清須会議以降、勢力が柴田勝家側と羽柴秀吉側に二分されていた織田家の家臣による争い「賤ヶ岳の戦い」が勃発します。

秀吉が勝利、恒興は参陣していないものの美濃国内に13万石を拝領しました。翌1584年には徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いがはじまり、恒興は秀吉方で参戦します。

途中三好信吉・森長可・堀秀政と共に徳川家康の本拠地である三河国を攻めようとしましたが、この合戦の前半、鞍に銃弾を受けたことが原因で落馬し、最期は徳川方の永井直勝の槍を受けて長久手にて娘婿の森長可と共に討死しました。

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