簗田政綱は織田家に仕えた謎の家臣
簗田政綱は信長の家臣
生年不詳、出自もよくわかっていない簗田政綱。没年は1579年と伝えられているようですが真実はわかりません。織田信長の家臣であり、桶狭間の戦いでは敵将の首をとった武将よりも信長から高い評価を受けたといいます。
それは政綱が今川義元の陣の場所を知っていたため、勝利に大きく貢献したからだと言われています。しかし、資料にはあまり出てこない簗田政綱。
信長公記によると…
太田牛一が記した信長公記には「簗田弥次右衛門御忠節の事」というのがあります。武衛様(尾張国守護斯波氏)の家来に簗田弥次右衛門という多くの知行を得ている人物がいて、清州城にいる那古野弥五郎と信長公に通じて清州織田家をやっつけようと計画していました。
他の家臣たちにもその話をすると皆それに賛成し、簗田と那古野は信長に内通。これを知った信長は清州へと出兵。
城下町を焼き払うと自身も清州へと向かいましたが、この時は城の守りが固く、武衛様も城内にいたことから引き上げたというようなことが書いてあります。
これは1552年の「萱津の戦い」から1554年の「安食の戦い」の間に起きたことだと思われます。
元は斯波家の家臣
簗田氏は元々斯波家の家臣だったようです。信長公記には一僕という書かれ方をされていますが単純に身分が低いというよりは、守護に仕えて雑役などを務めるような仕事をしていたのではないでしょうか。古くは陸奥国国人のようなので、根拠地が陸奥国である斯波氏について尾張にきたのかもしれません。
この時期、義統は清州城で坂井大膳や織田信友らによって傀儡化(くぐつか)されていました。
また、信秀が死去した後に信長が家督を相続しましたが、信行の家督相続を推していた信友はこれが気に入らず、信長暗殺を計画していました。
自身が傀儡化されていることに嫌気がさしていた義統は、この暗殺計画を知ると信長に「密告する代わりに自分を助けてほしい」と要請しました。
この時に信長に通じたのが簗田と那古野でしょう。
これが引き金となって義統が信長側についたと考えた織田信友らは、義銀が川狩りに出かけている隙をついて信友らは義統を自害へと追いやります。
義銀は信長に保護され、信長は主家である「斯波義統の仇討ち」という名目で清州へ乗り込み、目の上のたん瘤・信友を謀叛人として処理することに成功します。
その後、信長によって傀儡化されていた義銀は今川義元と組んで信長追放をはかりますが、実行前に信長にバレてしまい義銀は尾張を追放されて大名としての斯波武衛家は滅びました。
斯波家が衰退していく中、簗田弥次右衛門は信長に仕官したものと考えられます。
弥次右衛門は政綱の父?
この弥次右衛門というのは、政綱ではなく政綱の父だと考えられています。政綱は父に付いて信長の配下に入り、何らかの戦功により九之坪城を与えられ、桶狭間の戦いでは今川義元の本陣の位置を把握し、信長の勝利に貢献したため、沓掛城と3000貫文の知行を与えられたということでしょうか。
その後の動向がよくわかりません。沓掛城や加賀小松城天神山城などの城主を歴任したらしいのです。
しかし、それは別喜右近の話のようで、政綱はどうしていたのか不明です。
そもそも簗田弥次右衛門と政綱の関係を親子とするものもあれば、関係は不明のままとなっているものもありますので、どうしても推測の域となってしまいます。
別喜右近は政綱の息子?
さらに簗田政綱について調べていると前述した別喜右近という別名が度々登場します。どうやら政綱の息子のようです。政綱の名前はあまり出てきませんが、別喜右近はかなり活躍したようで1570年の小谷攻めでは殿軍を務め、1575年には秀吉や光秀とともに叙位任官を受けています。
別喜右近は加賀国の旗頭となり、加賀一向一揆の討伐などにもあたっていたようです。
手取川の戦いで上杉謙信と対陣して惨敗。その後は蟄居したと言われていますが信長から離れた後、本願寺の顕如の息子・教如の弟子となり、法順と号し1583年に真宗東派寂定山超願寺を開創しました。
政綱も1559年に愛知県豊明市にある現寺号平野山聖應寺を臨済宗大本山大徳寺直末として久護峯慶昌寺と寺号を改めています。
この頃に沓掛城を与えられていたのでしょうか。桶狭間の戦いが1560年と言われているので……やはり謎の多い人物ですね。
余談ですが、この政綱が寺号を改め別喜右近とその縁者が曹洞宗に改宗し、現寺号になった聖應寺に簗田出羽守の墓がありますが政綱のものかどうかは謎のまま。信長の位牌も納められています。