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織田信長と細川藤孝(幽斎)


幕臣だった細川藤孝(幽斎)

細川藤孝(1534年6月3日~1610年10月6日)は、和泉半国の守護・細川元有の子で三淵氏の養子となっていた三淵晴員の次男として京都の東山に誕生しました。

1540年7歳の時に伯父で和泉半国の守護・細川元常の養子となり、1546年には時の将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を受け細川藤孝と名乗るようになります。

1565年まで幕臣として仕えましたが足利義輝が三好三人衆に討たれ、当時僧門にいた後の足利義昭が興福寺に幽閉されると、兄や一色藤長、和田惟政らと協力して救出し、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼り、義昭を室町将軍にするために奔走しました。

しかし、朝倉義景がなかなか上洛に向けて動き出さないことに痺れを切らし、明智光秀を通じて尾張国を中心に勢力を拡大していた織田信長に助力を求めます。

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信長に仕えた細川藤孝

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛するとそれに同行し、自身は三好三人衆の一人・岩成友通から奪還した勝竜寺城を拠点として大和国・摂津国内を転戦しました。

幕臣として足利義昭に仕えてきた細川藤孝でしたが、足利義昭と織田信長の対立が表だってくると1573年3月、信長が兵を引き連れて上洛。それを出迎えて信長に恭順する意思を明確にしました。

また、義昭が信長に対して逆心があることを密かに伝えるなどし、信長が義昭を京都から追放して後は山城国の長岡一帯を与えられ、名字も改めて長岡藤孝と名乗るようになりました。

それ以降は信長方の武将として岩成友通を山城淀城で滅ぼし、高屋城の戦いや越前の一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐などに参戦。山陰方面を任されていた明智光秀の与力としても黒井城の戦いをはじめとして活躍しています。

藤孝と珠が婚姻

1577年には信長に対して謀反を起こした松永久秀を信貴山城に籠っていたところを光秀と共に滅ぼしました。

1578年には信長の取り計らいで光秀の娘・珠と藤孝の嫡男・忠興の婚姻が成立しました。ちなみにこの珠さんは細川ガラシャという洗礼名の方が有名ですね。

その後も光秀の力を借りて丹後国南部を平定し、信長から丹波国南半国の領有を認められ宮津城を居城とし、丹波国北半国を治めていた一色光信と共に甲州征伐に出陣するなど活躍を見せました。

1582年、本能寺の変で信長が死去すると親戚でもあった光秀の要請を幾度にもわたって断り続け、剃髪して田辺城に隠居、雅号を幽斎玄旨として家督を嫡男の忠興に譲りました。


長生きをした細川藤孝(幽斎)

その後は秀吉の側近の文化人として重用され、秀吉が死去した後は親交があった徳川家康に接近し、徳川の世になった1610年まで生きました。

当時にしては相当な長生きです。晩年の幽斎は京都吉田で悠々自適な生活を送ったと言われています。

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