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織田信長と竹中重治(半兵衛)


竹中重治は斎藤氏の家臣

竹中重治(1544年9月27日~1579年7月6日享年36歳)は、美濃国の斎藤氏の家臣で御堂城城主・竹中重元の子。

1559年に父・重元が菩提山城を築城したことで居を移したため、それに従い現在の岐阜県不破郡へと身を移しました。

1560年には竹中家の家督を相続し菩提山城主となり、美濃の蝮・斎藤道三の息子である斎藤義龍に仕えました。

義龍は1554年に道三から家督を相続していましたが、父との不仲により自分の弟たちを殺害し、1556年長良川の戦いで父・道三を討ち取ります。

美濃の国主となった義龍に仕えた重治は、1561年に義龍が死去すると義龍の嫡男・龍興に仕えました。

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信長の美濃侵攻

この頃、織田信長による美濃侵攻が激しさを増し、家督を継いだ龍興が若年だったことから家臣たちは動揺し、義龍の頃には防げていた信長からの攻撃を凌ぐことが困難になっていました。

また、龍興は酒や女に溺れ政務を行わず、重治や稲葉・氏家・安藤の西美濃三人衆を政務から遠ざけていました。

このようなことから斎藤氏は内部で反乱が起こり、一時期、龍興が居城の稲葉山城から追われる事態になります。

その後、龍興は稲葉山城を奪還しますがその機に乗じて信長は美濃への圧力を強くし、龍興は再び稲葉山城を追われます。

重治は斎藤家を見限り、一年間浅井長政の客分となったあと隠棲しました。


信長の家臣時代

美濃国へと侵攻し斎藤氏を滅亡させた信長は、浪人をしていた竹中重治を自分の家臣にするために木下秀吉に勧誘する様に命じ、重治は信長に仕えることになりました。

1570年、信長は再三の上洛命令を拒否し続けていた越前国の朝倉義景を討伐するために進軍し、朝倉氏の諸城を次々と攻略していきます。

そんな中、突如として妹婿の浅井長政か離反したという報告を受けます。

浅井長政の離反により、朝倉軍を浅井軍の挟み撃ちにされる危機に陥った織田軍はすぐに撤退を開始。殿軍は明智光秀・木下秀吉が務め、織田軍は無事京都へ帰還しました。

これにより織田信長と浅井長政は敵対関係となりましたが、織田家に仕える前に浅井家に身を寄せていた重治は、その時の人脈を生かして浅井家の家臣に対する調略活動で活躍し、長亭軒城や長比城を織田方に寝返らせることに成功しています。

また、荒木村重が信長に対して謀叛を起こした際、説得に向かった黒田官兵衛が有岡城で捕縛・監禁され連絡が途絶えたことに対して信長は官兵衛が荒木方に加担したと思い込みます。

信長は官兵衛の嫡男を殺害する様に秀吉に命じましたが、重治は秀吉に偽物の首を首実検に提出させることで、官兵衛の嫡男・松寿丸の命を助け、松寿丸を自分の領地に引き取ると家臣の不破矢足の屋敷へ匿いました。

重治は1579年、織田家に対して反旗を翻した播磨国三木城城主・別所長治の三木城を攻める秀吉につき、兵糧攻めのため三木城を包囲している最中に病(結核)で倒れ、最期は陣中で死去しました。

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