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織田信長と森坊丸・森力丸・森千丸


織田信長の小姓(こしょう)で「森」といえば、蘭丸があまりにも有名ですよね。ちなみに写真は森可成となり、蘭丸や坊丸達のお父さんです。

しかし、美濃国の斎藤道三によって主君・土岐氏が滅ぼされた後、信長に仕えた森可成の息子たちは、蘭丸以外にも小姓として信長に仕えていました。

今回は蘭丸の他に小姓として仕えていた森家の息子たちについて詳しく解説していきたいと思います。

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森坊丸(森長隆)

1566年に生まれた森可成の四男。1577年5月に蘭丸兄と共に信長の小姓となりました。現在で考えると小学校の高学年ですね。そんな坊丸が何をしたのかというと、ほとんど資料がありません。

蘭丸の逸話は沢山あるのに….

しかし、頭は良かったようです。特に連絡係としての才能は半端なく、信長からの伝言を間違えることなく正確に伝え、また信長の家臣たちから聞いたこともきちんと信長に報告していました。

「壁に耳あり」と坊丸に聞かれたら最後、どんな些細な陰口でも信長にきちんと伝わっていたのでしょう。これは信頼が持てるということに他なりません。

1582年6月、本能寺の変の際にも最後まで信長に付き従い、高橋惣左衛門に討ち取られ死去しました。享年17歳。

森力丸(森長氏)

1567年に誕生した森可成の五男。蘭丸兄・坊丸兄と共に信長の小姓を務めました。大体10歳で信長様に仕えることになった力丸ですが、何といっても資料に名前が出てきません。

現在でいうと小学4年生くらいですから、彼にできることはそんなになかったのかもしれません。

それでも1582年の本能寺の変の際にも信長の側に仕え、明智方の四方田孫兵衛に討ち取られてしまいます。享年16歳。

小姓というのは武将の傍に仕えて雑用や、蘭丸のように秘書のような役割を果たすこともあったようです。また、一流の作法と教養、さらには武芸にも長けているというエリートなんですね。

織田信長の小姓では、他に前田利家が幼少の頃に仕えていましたが、立派な武将になっています。そして、戦などでは主の命を守るために盾となることもあったようです。

本能寺の変では信長も死去してしまっているのですが、蘭丸・坊丸・力丸も最期まできちんと御役目を果たしたということです。


森千丸(森長重のちに森忠政)

さて、ここでタイトルを思い出してみてください。力丸・坊丸・千丸とありますよね。千丸も確かに小姓だったようです。

1570年生まれ森可成の六男です。驚くことに可成の子供六男二女は全て可成とえい(妙向尼)の間に生まれた子供です。妙向尼は凄いですね。

千丸が生まれた年に父・可成が宇佐山城で討死しています。彼が物心ついたころ、家督は次男の長可が継いでいました。(長男・可隆は父より先に討死)

石山合戦の際、母・妙向尼は交渉の使者の一人でした。この和睦を締結するにあたり、条件の中の一つに「森家ゆかりの人間を僧籍に入れる」というものがありました。

これにより千丸は一度「僧籍」に入ることになりましたが、しばらくして関成政の四男が代わりに僧籍に入り、千丸は還俗します。

1582年初めに三人の兄と同じく織田信長の小姓として使えますが、ちょっかいをかけてきた同僚の頭を扇子で叩いたのを信長に見とがめられ、幼すぎるということを理由に妙向尼の下へと返されました。

そのため本能寺の変に巻き込まれることなく、無事に生き延びることができました。

本能寺の変後、兄・長可によって迎えの使者が出され、身を寄せていた甲賀から金山へと戻ります。

1584年には兄・長可が小牧・長久手の戦いで討死したため、家督を相続することになりましたが、長可は長重が相続するのは嫌だという内容の遺言を残していました。

金山は他の優秀な武将に任せて、長重は秀吉に奉公するようにとも書いてあったようです。しかし、秀吉は後見役をつけた上で長重に森家の家督を相続させました。

その後、豊臣秀吉が死去してからは徳川家康に接近し、信濃川中島藩主となりましたが各地に転封になりながらも、1634年65歳の時に桃による食中毒で死亡しました。

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