織田信長と松永久秀


優秀な松永久秀

松永久秀(1508年~1577年11月19日)は大和国の戦国大名で、松永弾正という呼び方の方が広く知られているかもしれません。

久秀の出自はわかっていません。一説では美濃国の斎藤道三と同郷の出身だと言われ、この久秀は非常に優秀な人物だったようです。

1549年、当時久秀が使えていた三好長慶が、細川晴元や室町幕府の第13代将軍・足利義輝を京都から近江国へ追放し、京都を支配した際には公家や寺社との仲介役を三好三人衆の筆頭格である三好長逸と共に務めました。

三好長慶が上洛する際には長慶に従って上洛し、三好家の家宰となり、長慶の娘を娶るなど長慶の信頼も厚く、三好家の他の有力な武将と共に京都の防衛と外敵掃討の役目を任されます。

1560年には三好長慶の嫡男・義興と共に室町将軍義輝から将軍の出行に御供する御供衆に抜擢。

同年7月~11月にかけて大和北部を平定するなど三好家の中でも有力武将として台頭していきました。その頃には滝山城から信貴山城へと本拠を移し、天守閣を造営しています。

将軍・義輝は、久秀を主君・長慶と拮抗する勢力の持ち主としてみていたようで、桐紋の使用を許可。さらに塗輿の使用も認め、自身が参内する際には久秀を幕臣として連れていっていたようです。

この頃、久秀は長慶と相住し、長慶の側近としても重用され、六角氏と交戦する際には三好家の主力を率いて出陣しました。

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信長と久秀

1565年5月19日、久秀の息子・久通と三好義継、三好三人衆が軍勢を率いて上洛し、御所にいた足利義輝を襲撃して殺害するという事件が起きます。

この事件の直後から、畿内の主導権を巡って久秀と三好三人衆は対立する様になります。次第に三好家中を二分する争いにまで発展していきました。

そんな中、久秀は三好家中で孤立していき、1568年織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると三好義継と共に一早く降伏しました。

茶道を嗜む風流人でもあった久秀は、人質と共に名物と呼ばれる茶器の名品「九十九髪茄子」を信長に差し出し服属の印としました。

この甲斐あって、兄の仇として久秀を良く思っていない義昭に対して信長が説得し、幕臣となり京都で活動。

1570年には朝倉義景討伐に参加し、浅井長政が離反して織田軍が撤退を余儀なくされた際には、近江国の朽木氏を説得して味方にし、退路を切り開くなど信長の窮地を救っています。

また、久秀の娘を信長の養女とした上で人質に差し出し、三好三人衆との和睦をまとめました。

信長との対立

その後、石山本願寺攻めに参加しますが、信長包囲網が形成されていく中で次第に足利義昭との仲を強め、1571年には甲斐の武田信玄から書状が送られるなど信長に対する叛意が明らかなものとなっていきました。

1572年、三好三人衆、三好義継らと組んだ久秀は信長に対して謀反を起こします。

翌年の1573年、包囲網の一角で有力な武将の武田信玄が西上作戦中に病に倒れ死去したため、武田軍は甲斐へと撤退。

さらには7月に足利義昭が槇島城の戦いで、織田信長に敗れ追放されると11月には三好義継が信長方の武将・佐久間信盛に攻められて討死。

12月信長の軍勢に多聞山城を包囲され、城を信長に差し出す形で降伏しました。

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久秀の最期

1577年、信長が石山本願寺を攻めている最中、久秀は勝手に本願寺攻めから離脱し、上杉謙信や毛利輝元などの反信長勢力と呼応して信長の命令に背き、信貴山城に立てこもりました。

信長は松井友閑を使者として派遣しましたが、久秀は使者と会うことを拒絶。信長は自身の嫡男・信忠を総大将として大軍を信貴山城へと送り込み包囲させました。

信長方の武将・佐久間信盛は、久秀が所有していた茶釜の名器・平蜘蛛を差し出すように求めました。しかし久秀は平蜘蛛も自信の首も信長公の御目にかけようとは思わぬと返答。

10月10日に平蜘蛛を投げつけ叩き割ると天守に火を放ち、鉄砲の火薬を使用して爆死しました。

享年は68歳と言われています。久秀が東大寺の大仏殿を焼き払っていたという説があり、春日明神の仏罰が下ったと噂になっていたようです。


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