織田信長と柴田勝家
柴田勝家は織田家の重鎮
柴田勝家は信長の父・織田信秀の時から織田家に仕えていた家臣で、信長が織田家の家督を相続した頃には織田家の重鎮となっていました。1551年、主君であった信秀が死去すると信長の弟・信勝(信行)の家老として織田家に仕えました。
信勝の下で武功をたてながら、信秀の後継者を信勝にするために信長排除を画策しますが、1556年に信長との戦いに敗れて降伏し、信長と信勝の母である土田御前の願いで信長から赦免され、以降は信長を認め新参者と重用する信勝に見切りをつけ信長方につきます。
1557年に信勝が信長に対する謀叛を企図した時には事前に信長に報告し、信長の仮病で呼び出した信勝を暗殺することに一役買いました。
信勝が殺害された後は罪を許され、信長の家臣となり、信勝の遺児・津田信澄の養育を請け負います。
その後、しばらくは戦で重用されることはありませんでしたが、1568年には上洛作戦に織田軍の4人の先鋒武将として参戦し、重臣として武功をあげました。
柴田勝家の功績
1570年浅井長政が信長から離反し、勝家は長光寺城に配属され六角軍と交戦し、佐久間信盛や森可成、中川重政と共に撃退。「姉川の戦い」に従軍し、1571年5月「長島一向一揆」を鎮圧に向かい退却の際は殿軍を務めます。さらに9月の「比叡山延暦寺の焼き討ち」にも参戦しています。
1573年、朝倉氏との「一乗谷の戦い」では、信長軍総動員で朝倉氏を滅ぼし、勝家は北近江の「小谷城の戦い」にも参戦しましたが先鋒は務めませんでした。
1575年には「高屋城の戦い」・「長篠の戦い」に参戦。1576年には北陸方面の軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治などの与力をつけられ、強力な一向一揆勢を抱える加賀国の平定を任されました。
国内に一向一揆を抱える中、1577年7月には越後国の上杉謙信が加賀国に兵を進め七尾城で開戦。勝家は総指揮として七尾城へ救援に向かいます。
しかし、羽柴秀吉と軍議で衝突し、信長の許可がないまま秀吉は戦線離脱。足並みがそろわず、勝家たち救援隊が到着しないうちに七尾城は落城。
それを知った勝家は退却しますが手取川で上杉軍の襲撃を受け敗戦しました。
1580年、信長と本願寺が講和を結び、勝家は一向一揆の司令塔・金沢御堂を滅ぼし、軍を進めると1580年11月に加賀を平定し、そのまま能登国・越中国に進軍します。
佐久間信盛が失脚したことで筆頭家老となり、1581年の京都御馬揃えでは前田利家ら与力を率いて上洛し、参加しました。
秀吉に敗れた勝家
1582年本能寺の変によって信長が死去してからは、清須会議で織田家の家督を信長の孫の三法師が継ぐと勝家は、秀吉・丹羽長秀・池田恒興と共に補佐につきました。また、清須会議の際に諸将の承諾を得て信長の妹・お市の方を娶りました。
秀吉が推した三法師が後継者となったことで、力を増した秀吉と勝家をはじめとした他の織田家重臣の間では、権力抗争が起こるようになりました。
勝家は1583年に北近江に出兵し、賤ヶ岳の戦いで秀吉と対峙しますが秀吉に敗れます。最期は4月24日に妻・お市の方と共に北ノ庄城にて自害しました。