織田信長と前田利家


前田利家は槍の名手

前に「利家とまつ」というドラマがありましたが、戦国時代の槍の名手で「槍の又左」の異名をとった豪傑・前田利家。彼は幼い頃から織田信長に仕えていました。

ちなみに前田利家の幼名は前田犬千代です。利家は信長より3歳年下であったと言われています。利家の父は尾張国海東郡でその地を支配していた土豪・前田利春、その四男として生まれます。

前田氏は織田家筆頭家老の林秀貞の与力で、1551年頃から利家は信長に小姓として仕えました。

前田利家といえば「傾奇者」としても有名で、若い頃から短気で血の気が多く、派手な格好をしていたようです。信長と気が合いそうな雰囲気ですね。

また、イケメン武将としても人気がありますが当時男性の平均身長は157cmほどだったのに対し、利家は約180cmという高身長でした。

残念ながら現存してはいませんが、6mもの長さの槍(建物の高さで言えば大体2階建てくらい)を振り回して戦ったというのですから、きっと筋肉も凄かったのでしょう。

その上、端正な顔立ちに実は当時伝来したばかりだと思われるそろばんを得意としていたという話もある話題に事欠かない武将です。

現存する日本最古のそろばんは前田利家のそろばんらしいですよ。できれば槍も残しておいてもらえると良かったのですが……。

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利家の浪人時代

利家が初陣を飾ったのは1552年の清州城主・織田信友と織田信長の間に起こった「萱津の戦い」。この時利家は首級を一つあげる戦功を立てました。

その後、前田犬千代は、元服して前田又左衛門利家と名を改めました。

元服してからも1556年には、信長と信勝の家督相続争いで武功を挙げ、1558年には守護代で岩倉城主であった織田信賢との争い・浮野の戦いに従軍しここでも戦功をあげます。

浮野の戦いの後、信長の直属精鋭部隊・母衣衆の赤母衣衆(黒母衣衆もいました)の筆頭に抜擢されました。

この頃「まつ」と結婚し、娘が誕生。順風満帆な武将ライフを送っていた利家でしたが、1559年信長の御気に入りだった同朋衆の茶坊主・拾阿弥と諍いを起こします。拾阿弥を斬殺しそのまま出奔しました。

この罪は柴田勝家や森可成の取り成しにより、出仕停止処分に減罰され利家は浪人となります。

1560年、未だ出仕停止処分中で浪人をしていた前田利家は、信長に無断で勝手に桶狭間の戦いに参戦。

前哨戦で首一つ、本戦で首二つの戦功をあげましたが、信長に許してもらえず浪人を継続することに。

翌年の1561年に起こった森部の戦いにも無断で勝手に参戦し、二つの首級をとる活躍をしました。

この時は信長に許してもらえたため、ようやく信長陣営に帰ることができました。


府中三人衆と呼ばれる

その後、金ヶ崎の戦い・姉川の戦いで戦功をあげ、一乗谷の戦いや長島一向一揆制圧、長篠の戦いでは佐々成政らと共に鉄砲奉行として参戦しました。

この頃から利家は、柴田勝家の与力として越前の一向一揆鎮圧にも従事し、佐々成政・不破光治と共に府中三人衆と呼ばれるようになりました。

1581年信長から能登一国を与えられ、翌年、七尾城を廃城し小丸山城を築城。

1582年に本能寺の変が起きた際、勝家と共に上杉景勝軍と交戦中で動けず、賤ヶ岳の戦いでは勝家側で参陣しましたが早くに戦線を放棄。

その後、堀秀政の勧告に降伏し、勝家の北ノ庄城攻めの先鋒となります。戦い後は秀吉から加増され、本拠地を加賀の金沢城へと移しました。

信長亡き後は秀吉に仕えましたが、秀吉が死去したあと法度を破った徳川家康と対立。

家康と和解したもののその直後に利家の病状が悪化し、大坂の自邸で死去しました。享年62歳。

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