織田信長の出身地
本当の信長誕生の地とは?
織田信長は三英傑の一人として今でも多くの映画やドラマ、小説、ゲームなどの題材として人気の高い戦国武将の一人です。信長が誕生したのは1534年5月~6月頃。尾張守護代織田氏の庶流である弾正忠家の当主・織田信秀と継室・土田御前との間に嫡男として誕生しました。
生誕の地としては那古野城(愛知県名古屋市中区)という説が有名ですが、勝幡城(愛知県愛西市)という説が最近では有力になっています。
那古野城は現在の名古屋城二之丸付近にあったとされる今川氏の居城です。名古屋城内にある那古野城跡の立て札には、1538年に織田信秀が今川氏豊から奪い居城とした旨が書かれています。
信長が生まれたとされているのは1534年ですので、こちらの記述では信長の誕生後に那古野城を奪ったことになります。
但し、名古屋城の公式サイトには、1532年に織田信秀が今川氏豊を追放し居城としたとあります。こちらの記述を見る限りでは、信秀が居城とした後に信長が誕生しているので、信長生誕の地が那古野城でも不思議はありません。
城跡と公式サイトで内容が違っていると何が正しいのか…..しかし、そんな疑問を解決に導いてくれた人がいます。愛知県愛西市で公民館の館長をしている石田泰弘さんです。
勝幡城が有力な説
YOMIURI ONLINEによると石田さんは勝幡城の近くで生まれ育ち、城跡に立てられていた看板の「一説によると信長はこの城で生まれた」という一文がずっと頭の中にあったとのこと。当時は那古野城が定説でしたものね。地元でも進学先の大学でもそんな話は聞いたことが無いと一笑に付され、真実はわからないまま大学院に進学し、23歳の時に旧佐織町の町史の執筆委員となります。
資料を調べている中で「尾州古城志」という江戸時代にまとめられた地誌に信長が勝幡城で生まれたと書かれているのを見つけたそうです。
しかし、これだけでは断言することはできませんので那古野城についても調べ始めてみました…..
すると….京都の公家であった山科言継が、勝幡城に信秀を訪ねた時の日記の記述に1533年に那古野の今川竹王丸という少年が勝幡城に招かれ、一緒に蹴鞠(けまり※蹴る遊び)をしたと書いてあるではないですか。
さらに別の研究者が「今川竹王丸」というのが今川義元の実弟であり、元服してのちは今川氏豊と名を改めることがわかりました。
また、那古野城は今川氏が古くから飛び地として持っていた土地でした。これらのことから、1532年に織田信秀が1532年に那古野城を奪ったという説も信長生誕地が那古野城であるという説と共に消えます。
代わって信長の生誕地は勝幡城であり、1538年に信秀が那古野城を奪ったという説が有力視されるようになりました。
そして信長の誕生日ですが、5月11日や5月12日という説もありますが、ルイス・フロイスの記述から計算すると5月28日という説が最も信憑性が高いようです。