織田信長と鉄砲隊
鉄砲の入手ルート
織田信長が武田勝頼と刃を交えた「長篠の戦い」。当時、武田の騎馬隊といえば最強を謳われるほどの相手でした。それを信長は値段が高く大量に導入することが非常に困難であったと思われる鉄砲3000挺も導入し撃破します。貴重な鉄砲を信長は、なぜ大量に用意することができたのでしょうか?
信長は戦で領土を拡大する一方で商業において重要な流通の拠点をしっかりと抑えていました。当時、座に入っていないと商売ができなかったのですが、その座を廃止し楽市楽座というシステムを城下町で行いました。
楽市楽座は商売をしようと思う人なら、誰でも商売を行えるシステムとなり、現在でいうとフリーマーケットに近いかもしれません。
もちろん税はとっていましたが、税を安くするなど商売をこれから始めようという人も始めやすい環境を整えたのです。
それにより信長の城下には商人が多く往来する様になり、また城下町に宿泊することを義務化したことで城下町の商人たちにも利益が出ることで、城下町全体が潤うようになりました。
また、信長が抑えていた堺・大津・草津は、特に重要で中でも堺は最大の貿易港であった上、刀や武具、鉄砲の一大産地でもありました。
これらの物流・流通の要となる場所を抑えていたことで、鉄砲を使用するために必要な火薬や弾丸などを手に入れるためのルートを確立することができたのです。
鉄砲隊が編成された長篠の戦い
そして、鉄砲を戦に取り入れるために信長は鉄砲隊を編成しました。それが本領を発揮したのが武田との長篠の戦いです。一般的に火縄銃は、火薬と弾を仕込み縄に火をつけて撃つという少し面倒な仕組みになっています。このような充填作業はある程度の時間が必要です。
それを補うために信長が講じた策が三弾撃ちです。一列目が撃っている間に、後ろ二列はが撃つために必要な準備をしておき、交代で相手を攻撃するという画期的なものでした。
このようにして武田の騎馬隊を鉄砲隊という新しい戦法で打ち破ったのです。これは日本史の中でも重要な戦いとして1575年という西暦とともに覚えた人も多いでしょう。
しかし、現在の研究でこの三弾撃ちですが、実際には行われていなかったのではないかと言われています。
三弾撃ちは行われていなかった?
まず三弾撃ちに関する資料が残っていない、さらに発掘調査の結果、3000挺用いられたはずの弾丸などが出土していないことなどが挙げられています。三弾撃ちの話がでてくるのは「信長記」という書物ですが、この本は江戸時代初期に書かれた小瀬甫庵によるものです。
信長記は読み物として意識されているためか、信長の旧臣・太田牛一の「信長公記」を基として創作された内容であり、歴史を伝えるための書物ではないため、信憑性が低いことが言えます。
また、牛一の信長公記の中では、鉄砲を撃ったというような内容はあるものの三弾撃ちを行ったということは書かれていません。
鉄砲隊が活躍して勝利したというよりは、設楽原で待ち受けていた信長・家康の連合軍が防御の準備を十分にしていたことや、長篠城の救援に向かった部隊と挟み撃ちにしたこと、さらには勝頼の退路を奪っていたことなど…..これらの戦術的要因での勝利であったようです。
また、牛一の信長公記の中で鉄砲隊は、各武将の銃隊から兵を集め1000人ほどの鉄砲隊を臨時に編成したという旨が記されており、鉄砲の数は実際には3000挺より少なかったのではないかと考えられています。
研究が進み….いつの日か真実がわかるのかもしれません。それでも、歴史の波に想いを馳せるときには、少し虚飾があるくらいの方が浪漫を掻き立てられるのかもしれませんね。