信長の本願寺攻略


石山本願寺は、元々京都市山科区にあった浄土真宗の寺院「山科本願寺」が細川晴元らによって火を放たれた後、当時大坂にいた浄土真宗の僧侶・証如が、現在の「大坂城二の丸」あたりに山科本願寺にあった仏像などを鎮座したのが始まりとされている寺院です。

その後も石山本願寺と細川晴元らの争いは続き、その戦いの中で石山本願寺は、寺領を拡大するとともに城郭建築の技術者を集めて、寺領の周囲に塀や濠、柵、土塁などを巡らせる等、防御を固め城郭のようになっていきます。

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勢力を拡大する石山本願寺

住持が証如から顕如に代わると証如時代に築いた天皇や公家、相模の北条氏、甲斐の武田氏などとの親交に加えて、三条公頼の三女を六角義賢の養女とし、さらに細川晴元の養女とした上で顕如の正室として迎え入れました。

このように戦国大名との関係を強固なものにして行くことで、本願寺は権力や富も持ち、寺内町に刀鍛冶集団を住まわせるなど武力も備えていました。

勢力を拡大していった石山本願寺ですが、その前に立ちふさがったのが織田信長でした。

石山本願寺VS織田信長

信長は1568年に足利義昭を奉じて上洛し、足利将軍家の再興の名目で石山本願寺に対して5000貫を要求しました。

これには石山本願寺も応じましたが、1570年正月に石山本願寺の明け渡しを要求されるとこれを拒否し、「打倒織田信長」を全国の門徒に向けて発しました。

信長は石山本願寺があるこの土地を非常に高く評価しており、本願寺が明け渡しの応じた場合、若しくは本願寺を攻略後はこの地に大規模な築城を予定していたと言われています。

一方の信長は1570年4月、上洛命令に従わない越前国の朝倉義景に対して叛意ありとして挙兵し、越前国へ進軍を開始しますが、途中、信長の妹婿で朝倉氏とも縁があった浅井長政が織田軍から離反し、朝倉方に寝返りました。

挟撃される危険があったため、京へと撤退した信長でしたが、6月に姉川で朝倉・浅井の連合軍と織田・徳川連合軍は相まみえ、織田・徳川の連合軍が勝利をおさめます。

更に続いて摂津国で三好三人衆が挙兵したため、信長はそれを討つために出陣、三好三人衆と同盟を組んでいた石山本願寺も挙兵し、野田城・福島城の戦い開戦から足掛け11年の長期に及ぶ石山合戦が始まったのです。

1573年、石山本願寺と同盟関係にあった朝倉・浅井軍に対して、越前国一乗谷にて朝倉氏を滅ぼした信長は、続いて翌月には小谷城に籠城した浅井長政を滅亡へと追いやりました。

これにより、信長は自身に従うことを良しとしなかった朝倉義景を討つことができ、さらには本願寺の勢力を大きく削ることに成功します。

その後、各地で打倒信長の声をあげていた一向一揆勢の殲滅作戦を決行します。

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和睦して一時停戦

1574年に信長が治める尾張と隣国・伊勢の国境を中心として起こっていた長島一向一揆を殲滅。翌年の1575年には長篠の戦いで武田勝頼を破り勢いに乗っていた信長は、顕如が派遣した越前守護の悪政により、越前の一向一揆衆が内部から崩壊仕掛けているのを知って侵攻を開始します。

信長は陸と海のから攻撃を仕掛け、逃亡した者も男女問わずに切り捨て殲滅、さらに一向宗の味方をした疑いで豊原寺を全山焼き討ちしました。

余談ですが、あの前田利家も殲滅作戦に参戦していたようで一揆衆を磔(はりつけ)や釜茹にしたという記録があります。

こうして各地の一向一揆衆を次々と殲滅し、本願寺の勢力を削ぎ落としていった信長に対して危機感を抱いた顕如は、1575年10月、武田や毛利からの挟撃を受ける危険があった信長に対して有利な条件の和睦交渉を申し入れ、信長は承諾したため、本願寺と信長は一時停戦しました。

しかし、和睦の翌年には顕如が打倒信長に向けて各地の一向宗門徒へ応援を求め、兵糧や武器を蓄えるなど信長との交戦準備を着々と進めます。

石山本願寺「顕如」の反撃

1576年、「天王寺砦の戦い」で信長は本願寺に追い込まれながらも勝利をおさめ、信長は大坂周辺に新たに10ヶ所の城を築城し、本願寺に対しての物資供給路を遮断します。

さらに沿岸にも砦を設け海路の警戒も怠らない信長に対して本願寺も出城を構えて籠城作戦に出ましたが、各地の一向一揆衆は信長によって殲滅・平定されていたため、門徒から救援を得ることが難しく、寺内町を含めて本願寺は深刻な食糧不足になります。

顕如の弟子で長男の教如は、信長と不和になり京都から追放されていた足利義昭を頼り、毛利輝元への仲介を依頼します。

1576年7月に毛利輝元の擁する毛利水軍と雑賀衆が、水路を警戒していた織田の水軍を破って石山本願寺へと食料を届けることに成功します。

しかし、1577年に雑賀衆が信長に降伏し、続いて1578年には毛利水軍が九鬼水軍に敗れ、海上の覇権を奪われると本願寺への物資供給の道はほぼ閉ざされてしまいます。

このような状況において当時の天皇・正親町天皇が勅命を発し、石山本願寺と織田信長の和睦が成立。

その後、教如は大坂に残って信長に抵抗しようとしましたが、和睦から約4ヵ月後に教如が大坂を去ることで10年以上の長きに渡って繰り返された織田信長と石山本願寺の戦いは終わりを迎えました。

教如が去った後、織田信長の軍事力をもってしても陥落することができなかった石山本願寺は、寺内町も含めて全てが炎上してしまいます。これは教如自身による放火だと考えられています。

先にも書いたように跡地には豊臣秀吉が大坂城を築城したため、当時の規模など詳細を知ることは困難でしょう。

豊臣大坂城も大坂夏の陣で豊臣氏滅亡と共に焼失しており、現在残っているのはその後に築城した徳川大坂城のものです。

豊臣時代の遺構は地中に埋まっており、それ以前にあった本願寺の様子等は更に掘り返す機会でもない限りわかりません。


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