本能寺の変に新たな資料が


1582年、本能寺に滞在していた織田信長が、明智光秀の謀反により横死した本能寺の変

中国地方からものすごい速さで戻ってきた豊臣秀吉軍が明智光秀を討ち取り、後継者を決める清須会議後は、何だかんだありましたが最終的に豊臣秀吉が政権を握りました。

本能寺の変については様々な説があり、明智光秀がどれだけ探しても信長の遺体が発見されなかったことから、信長は「生きている」という噂が錯綜したという話があります。

明智光秀は家臣たちの前で信長から嫌がらせを受けていたことから、謀叛を起こしたなど動機についても様々な説が飛び交っています。

その他、明智光秀の背後に誰か黒幕がいたのではないか?という豊臣秀吉黒幕説、徳川家康黒幕説、朝廷の陰謀説などがあります。

後世でああでもない、こうでもないと考えるのは非常に楽しいのですが、この本能寺の変に纏わる新たな資料が発見されたというのです。

スポンサーリンク


長宗我部元親と織田信長

発見された資料を所蔵している岡山市の林原美術館と共同研究をしている岡山県立博物館が発表したものです。

内容は戦国時代、土佐の武将であった長宗我部元親(※画像の人物)が四国の領土に対して織田信長の指示に従うという意向を示したものでした。

当時、四国の領土を巡って織田信長と長宗我部元親の仲介をしていたのは明智光秀でした。

長宗我部元親は1569年に安芸国虎を滅ぼし、続いて1575年土佐国に攻め込んできた一条兼定を撃破し、土佐統一を果たしました。

一方の信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、勢力を格段に伸ばしていました。

元親は自身の正室(明智光秀の家臣・斎藤利三の妹。斎藤利三の正室が斎藤道三の娘)と信長の正室の縁戚関係から信長と同盟を結び、家臣の反対を押し切って中島可之介を織田信長の下に使者として派遣し、自身の長男・弥三郎の烏帽子親(元服式の際に加冠を行うもの)を信長に依頼し、信長もそれを引き受けました。

この時の信長は阿波で元親が在陣することを許し、四国は切り取り次第所領にしてよいという朱印状を出したといいます。

しかし、1580年に信長は元親に対して土佐国と阿波南半国のみの領有を認め、臣従(しんじゅう)する様に迫りました。

この背景には三好氏との戦いを有利に進めるため、元親は中国地方の毛利氏とも関係を強めており、信長の中国征伐が本格化してからも元親がその方針を変えなかったため、信長は四国の領有についての考えを変えたのではと言われています。

スポンサーリンク


四国討伐に関する手紙

今回、発表された資料は石谷家文書と呼ばれる古文書群から見つかったもので明智光秀の家臣・斎藤利三に宛てたものでした。内容は信長の四国征伐に従うという意思を示したものでした。

1582年5月21日付で、本能寺の変が起こる直前にやり取りされたこの手紙が引き金となって、明智光秀が本能寺の変を計画したのではないかとも考えられます。

また、本能寺の変の計画は一部の重臣には知らされていたようで、その家臣たちの中には斎藤利三も含まれています。

信長と元親は敵対する関係になっており、1581年には信長の配下にいた四国攻略担当の三好康長が四国へと渡り、長宗我部氏に属していた岩倉城主で自身の子である三好康俊を織田方に寝返らせます。

1582年2月には三好康長が四国攻略の先鋒として四国入りし、5月には信長の三男・神戸信孝が総大将となり、康長が信孝を養子とすることも決まっており、四国を統一した暁には阿波一国が与えられることになっていたようです。

このような中、本能寺の変が起こり四国攻略は中止となりました。

光秀は土岐氏の分家の出身と言われており、元親の正室は斎藤利三の妹で土岐氏の分家筋にあたる石谷氏の出身です。

光秀・元親・利三は縁戚関係にあったということです。フロイスが記した日本史の中に光秀は、才知、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けていた、己を偽装することに抜け目なく、戦いでは謀略を得意とし、計略と策謀に長けていたと書かれています。

以前、本能寺の変の黒幕について調べてみたことがありますが、全てが明智光秀の策略でたまたま長宗我部氏のことが引き金となってあのタイミングで実行されたのであれば、明智光秀はすごい男ですね。


スポンサーリンク


関連記事



キーワード