沢彦宗恩と織田信長


沢彦宗恩は信長の教育係

沢彦宗恩(たくげんそうおん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の僧で織田氏の家臣・平手政秀(信長の御世話担当で信長を諌めるために切腹したという噂がある人)に依頼されて信長の教育係を務めた人物です。

この沢彦宗恩についての記述が非常に少なく、信長との関係が教育係であったことはわかっているのですが、詳しいことはわかっていません。

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天下布武は沢彦宗恩の提案

信長が美濃を攻略した際、沢彦宗恩が進言した「岐山・岐陽・岐阜」の3つの候補から信長が岐阜を選び、稲葉山城下付近の地名を改めたと言われています。

じつはもう一人「岐阜」の命名者ではないかと言われている人物がおり、それは現在の岐阜県岐阜市にある臨済宗妙心寺派の寺院・崇福寺の第四世柏堂景森です。

どちらが本当なのかわかりません。

また、信長が使用した印として有名な「天下布武」も沢彦宗恩の提案だったようです。信長の教育係であった沢彦宗恩は、信長が家督を相続してから軍師のような役割も果たしていたようです。

平手政秀が自害し、酷く悲しんだ信長は政秀の菩提を弔うために政秀寺を建立しますが、開山となったのも沢彦宗恩です。

このようなことから沢彦宗恩は、信長から信頼されていた人物であるということが伺えますね。

沢彦宗恩を招いた平手政秀

沢彦宗恩は、各地を歴参行脚した後に妙心寺東海派の泰秀宗韓の元へ辿り着き、お墨付きをもらい妙心寺の第一座となりました。

しかし、その座を辞し、後は美濃国の守護代・斎藤利永の子・斎藤利国(妙純)が開基となり、興宗宗松が開山した美濃の大宝寺の住持(住職)を務めます。

斎藤利国は、廃寺同然となっていた崇福寺も整備しています。

信長は斎藤道三亡き後、道三の孫にあたる斎藤龍興を滅ぼして美濃を支配下に置くと臨済宗妙心寺派の寺院・崇福寺を菩提寺に定めました。

沢彦宗恩を信長の教育係として招いたのは平手政秀ですが、もちろんそれには信長の父・信秀がOKを出さないといけません。一説では信秀と宗恩は交流があったと…..。

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いくら禅宗の僧侶とはいえ、戦っていた相手の国の寺院にいる人物を呼ぶというのは大変なことだと思うのですが、どうなのでしょう。

信長の教育係として禅宗の僧が選ばれるということは、当時の禅宗の僧侶たちがエリート集団であったことが伝わってきます。

特に臨済宗は、禅宗の中でも武家にファンが多い宗派とされ、信長以外にも武田信玄や今川義元、伊達政宗の師も臨済宗の僧侶になります。

孔子や孫子なんかを禅宗の僧侶が、学問の一つとして読んでいたとしても不思議はありません。

信長との繋がりは不明

平手政秀と織田信秀、沢彦宗恩がどこでどう出逢い、信長の教育係に抜擢され、元服して参謀の役割まで果たすようになったのかは不明です。

平手政秀は歌や蹴鞠を嗜み、朝廷にも顔が効くような雅な部分もある方だったそうなので、人脈がなせるワザなのでしょうか。

少し調べてみると崇福寺にあたることが多いことから、その辺りに何かありそうな気配はします。

崇福寺には岐阜城の血天井も有りますし、これから先の研究でこの辺りのことも解明されてくると面白いですね。


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