織田信長と徳川家康
織田信長と徳川家康、戦国時代の三英傑にその名を連ねる二人です。
織田信長と言えば「大うつけ」と呼ばれ、父・信秀の葬儀では平服で参列し抹香を墓前に投げつけたとか….、延暦寺を焼き討ちにしたとか….、茶箪笥ごと坊主を斬ったとかなど残虐非道なイメージが強いですね。
また、信長は派手で新しい物好きだったそうで、宣教師が連れていた黒人に弥助と名を付けて自身の家来にしたとか、築城した安土城の天守、最上階は金色、その下には朱塗りの八角堂があったと言われています。
徳川家康の人柄・性格
一方の徳川家康と言えば、1600年の関ヶ原の戦いで勝利し以降264年間も続く江戸幕府を築いた人です。その性格は我慢強く、同時代を生きた織田信長や豊臣秀吉、他の武将のように積極的に領地を拡大し、天下統一を目指すというよりはじっと機会を伺って耐え忍ぶ、下積み時代が長い武将とでも言うのでしょうか。
また、たいそうなケチ…倹約家だったようで….、食事では「おかわりを防止する」ために漬物の塩気を濃くしていたとか….、汚れが目立たない着物を着て洗濯の回数を減らしていたというのに着物自体もボロボロになるまで着ていたなど信長とは正反対の性格だったようです。
きっと秀吉がド派手に花見を開いたり、黄金の茶室を作ってウキウキしているのを見ては腸が煮えくり返りそうになっていたのではないでしょうか。
徳川家康と信長の同盟
そんな二人ですが徳川家康が幼少の頃、人質として送られていた駿河の今川氏を織田信長が滅ぼした後に同盟を結びます。1562年に締結された清州同盟です。この同盟は徳川家康が三歳の頃、今川氏を見限って先に織田氏と手を組んでいた伯父の水野忠元が仲介しました。
1560年に桶狭間の戦いで織田信長に今川義元が敗れた後、今川氏に従属していた徳川家康は切腹しようと思っていたところを寺の住職に止められ思いとどまったという話がありますが、信長なら切腹しようとは考えないと思います。
性格が違う二人だったので揉め事も多いのでは?と思いますが、清州同盟後は本能寺の変で織田信長が横死し、秀吉が台頭してくるまでの20年間続くことになるのです。
信長が従事した家康
清洲同盟ですが最初は対等だったものの「長篠の戦い」以降、積極的に畿内・西国をはじめとして反対勢力を滅ぼし天下統一へと向かう信長。一方で信玄亡き後の武田氏勢力に悪戦苦闘する家康の関係は、次第に信長に対して家康が従属するといった関係に変化していきます。
この力関係は1576年に武田勝頼への内通を信長から疑われた水野信元が甥である家康を頼り、岡崎へと逃げてきたのを家康が信長の命令で殺害していることから伺い知ることができます。
最終的には江戸幕府を築き、300年近くもその治世が続いたのですから、この時の家康の対応は間違っていなかったのでしょう。
もしも家康が信長のような性格であったなら、一度その関係が崩れてしまえば一触即発の仲になっていたことが考えられ、信長が家康のような性格であったならそもそも三英傑にはなっていなかったでしょう。
信長と家康、後の時代には好きに言われていますが、彼らの在りようはこれできっとよかったのですね。