織田信長と朝倉義景


朝倉義景は1533年に越前の戦国大名で守護職にあった朝倉孝景の長男として誕生しました。

1548年、父・孝景が死去したため、義景は16歳で家督を相続し、1552年に時の室町幕府将軍・足利義輝から左衛門督の官位を与えられると共に「義」の一字をもらい義景と名を改めました。

1555年には家督を相続した時に若輩であった義景の補佐を務めていた祖父の宗滴が亡くなり、これをきっかけに義景は自身で政務を執り行うようになります。

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朝倉義景の一乗谷城

朝倉義景が本拠地としていたのは、越前(現・福井県)にあった一乗谷城です。現在では一乗谷朝倉し遺跡として国の特別施設・特別名勝・重要文化財の指定を受けており、また最大規模の世界文化遺産としても名高いところです。

一乗谷には足利将軍の分家・鞍谷公方もいたことから応仁の乱以降の荒れた京の都から公家や高僧、文人、学者など多くの人々が避難してきたため、京文化が花開き、北ノ京と呼ばれるほどで特に義景の父・孝景の時代には越前の中心として賑わいを見せました。

このようなことから一乗谷朝倉氏は京との繋がりが強く、足利義昭も上洛するために義景を頼り一乗谷へと向かっています。

しかし、義景は本願寺と敵対しており、上洛には消極的であったため、義昭は義景の下を離れて当時勢力を伸ばしていた織田信長の下へ身を寄せます。

この少し前、信長は美濃国斎藤氏との河野島の戦いで屈辱的大敗を喫しており、名誉挽回のために加治田城城主・佐藤忠能と配下の加治田衆を味方にし、さらに西美濃三人衆である稲葉良通・氏家直元・安藤守就を味方につけ、1567年、稲葉山城の戦いで斎藤龍興に勝利し、龍興は長島へ敗走、ついに美濃国を平定しました。

朝倉氏から離れた足利義明と信長

1568年、朝倉氏の下を離れた足利義昭と織田信長は岐阜城下の立政寺で会見し、同年9月に信長は足利義昭を奉じて上洛を開始、足利義昭は室町幕府の第15代将軍になります。

義昭を奉じて上洛した信長は、朝倉義景に対して義昭の命として上洛命令を2度にわたって出しますが、義景はそれには応じませんでした。

翌年1月、信長が美濃へ帰還した隙をついて斎藤龍興と三好三人衆が義昭の仮御所を攻撃し、信長は義昭のために二条に御所を築きました。(※現在の二条城は江戸時代のものです)

また、三好三人衆を撃破したことで堺を自身の支配下に置くことに成功した信長は、武器や火薬を得るための重要な物流拠点を抑えることができました。

この後、信長は将軍の権力を制限するため、9条からさらに7条追加された「殿中御掟」を義昭に対して発令し、義昭もこれを承認しました。

再三にわたっての上洛命令に従わない朝倉義景に対して信長は、義景に叛意ありという名目で越前へ向けて出陣、織田・徳川の連合軍は旧若狭武田の家臣・粟屋氏や熊谷氏を降伏させることに成功しました。

しかし、かねてより朝倉氏と交流があった妹婿の浅井長政の裏切りにあい、織田軍の背後を襲ったため、信長軍は京へと撤退。

朝倉軍は織田軍を追撃しましたが、殿を務めた秀吉が迎撃し、信長は無事京へと帰還しました。

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信長との戦い

1570年6月28日に織田・徳川連合軍と朝倉・浅井の連合軍は姉川で刃を交え、朝倉・浅井連合軍は多くの支城を失いました。

その後も「志賀の陣」では、比叡山に立てこもる朝倉・浅井と織田軍との間に戦闘が起こり、信長は比叡山に対して信長方につくように要求しましたが比叡山はこれを無視しました。

さらに朝倉と織田の間での小規模な戦闘は続き、11月28日、足利義昭らが坂本まで下向し、和睦調停を行いましたが、翌年義景は本願寺の顕如と和睦。

本願寺との戦闘が無くなった朝倉氏は、浅井氏と共に織田方の城を攻撃しますが敗走。信長は朝倉・浅井の残党を匿ったとして延暦寺を焼き討ちにし、見せしめとしました。

1572年10月、甲斐の武田信玄が西上作戦を開始し徳川の治める遠江や三河の城が次々と落城、しかし、翌年の4月に朝倉と同盟関係にあった武田信玄が行軍中に病死し、武田軍は甲斐へと撤退します。

朝倉義景の最期

武田の脅威がなくなった信長は、軍の勢力を朝倉へと向けました。1573年に信長は朝倉氏討伐のため挙兵し、浅井の小谷城を包囲し、救援に来た朝倉軍を信長自ら撃破。

織田方の諸将は敗走する朝倉軍を追いかけ、若狭国から木ノ芽峠を越え越前へと追走、兵の逃走が相次いだ朝倉軍は僅か10人ほどで一乗谷に帰り着いたものの、留守居の兵たちも大半が逃走した後でした。

義景は一乗谷を放棄し、8月18日には柴田勝家を先鋒とした織田軍が一乗谷に攻め込み火を放ちました。

賢松寺に逃れていた義景でしたが、最期まで付き従っていた朝倉景鏡が信長と通じて裏切り、もはやこれまでと義景は自刃しました。

その後、義景の一族は信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害され、戦国大名朝倉氏は滅亡しました。


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