織田信長と斎藤道三


織田信長の正室・濃姫の父上で「美濃の蝮」と恐れられた斎藤道三。元々は長井氏の出で美濃国守護・土岐頼芸に仕えている武士の一人でした。

道三の父は京都妙覚寺の僧侶であったと言われており、右大臣藤原不比等の次男・藤原房前を祖とする藤原北家日野家一門の出身だと称していました。

多くの名がありますが道三との繋がりをわかりやすくするため、ここでは「長井新左衛門尉」としておきます。

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油商人から武士へ

新左衛門尉は学友が常在寺(斎藤道三の菩提寺)の住職となるために美濃国へ赴くおりに還俗し、油問屋の娘と婚姻するとその後は油商人として行商などを行っていたようです。

ある日、油を売りに行った先で土岐家の矢野という人物から「武芸に力を注げば立派な武士になれるのに惜しいね」というようなことを言われ一念発起し商売を止めて、武芸の稽古に励み武芸の達人となりました。

達人となり武士になりたいと思った新左衛門尉は常在寺の住職となっている学友を頼り、縁あって守護土岐氏の家臣で小守護代の長井長弘の家臣となりました。

さらに武芸と才覚で頭角を現した新左衛門尉は美濃国守護・土岐氏の次男である土岐頼芸の信頼を得て、家督争いが起こった際には頼芸の兄・政頼を策を講じて越前へと追いやり、頼芸に家督を相続させることに成功。

新左衛門尉の最期は不明です。その後、頼芸の信任を得ていた長井長弘を1530年頃に殺害し、長井新九郎規秀を名乗ったのは新左衛門尉の息子・道三ではないかと考えられます。

斎藤道三に改名

長井姓を名乗った道三は1538年にはさらに改名し、病死した美濃国守護代の斎藤利良の名跡を継いで斎藤新九郎利政としました。

ついに美濃の蝮が斎藤姓を名乗るようになったわけですね。ややこしいのでここからは斎藤道三で統一します。

道三は1541年に土岐頼芸の弟・頼満を毒殺し、頼芸と道三の対立が始まりました。一時は道三が窮地に立たされることもありましたが、1542年に土岐頼芸の大桑城を攻め、頼芸とその子・頼次を尾張へと追放し、事実上美濃国の国主となりました。

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美濃国を平定

父が作った土台を基についに一国の主の座を手に入れた道三でしたが、追放された頼芸は尾張の織田信秀の後援を受け、先に追放され越前の朝倉孝景の下に身を寄せて反撃のチャンスを伺っていたのが土岐頼純です。

土岐頼純と連携を結ぶと織田家と朝倉家の力を借りて美濃国を取り戻しにかかりました。

1547年には信長の父・信秀が大規模な稲葉山城攻めを行います。

道三は籠城戦を行い、織田軍を壊滅寸前まで追い詰めましたが11月に頼純が病死し、この機に道三は織田信秀と和睦し、1548年には信秀の嫡男・信長の下へ自身の娘・帰蝶を輿入れさせました。

この後、両者は正徳寺で会見を行いましたが、その際、大うつけと名高い信長が鉄砲隊を引き連れて正装で現れたことに大層驚き、自分の息子たちは信長の配下になるだろうといったとの記述が残っています。

織田と道三が和睦したことで織田の後援を受け、道三に対抗していた勢力は滅ぼされ、頼芸を再度追放したことで道三は美濃国を完全に平定しました。

斎藤道三の最期

1554年に家督を子の義龍へと譲った道三は菩提寺である常在寺で剃髪(ていはつ)し、鷺山城に隠居しましたが、道三は義龍を廃嫡(はいちゃく)しようとしていたと言われており、義龍と道三父子の仲は険悪なものになりました。

廃嫡を逃れるために義龍は弟たちを殺害し、道三に対して挙兵、美濃国を道三に奪われたという気持ちが強い家臣たちが道三に味方をすることはありませんでした。

1556年に長良川で相まみえた時には、義龍の軍17000余りに対し道三は2500、信長は道三の窮地を救うために挙兵しましたが間に合わず道三は63年の生涯に幕を下ろしました。

しかし、道三は信長のことが相当好きだったのでしょう。討死する前に美濃国を信長に譲り渡すという内容の遺言書を信長に渡していました。

その後、美濃を巡って信長と義龍は、戦うことになるのですがそれはまた別のお話です。

信長の父・信秀とは覇権を争っていましたが、和睦して後は信長と手を結び上手くやっていたような気がします。

大うつけと呼ばれた信長も義父の道三に救援の兵を送るなど残虐非道なイメージとは違って、礼儀正しく、人間味が感じられますね。


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