織田信長と上杉謙信


信長と謙信の関係

尾張を中心に勢力を拡大していた第六天魔王・織田信長と、越後を中心に勢力を持ち軍神と呼ばれた上杉謙信。歴史上であまり相まみえることがない二人ですが、どのような関係だったのでしょうか。

東美濃へと武田信玄が侵攻して紛争が起きていた頃、その後、美濃国において領国を接することになった信長と信玄は、信玄の四男・勝頼に信長の養女・遠山夫人を娶らせることで同盟を結びました。

遠山夫人が1567年に武田信勝を出産した直後に早世してしまったため、信長の嫡男・信忠に信玄の六女・松姫を嫁がせることで友好的な関係を持続させていました。

一方の上杉謙信は、織田信長と同盟関係にある武田信玄とは北信濃の覇権を巡って常にライバル関係にありました。

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しかし、「川中島」や「桶狭間」といった合戦により、今川氏との同盟関係に緊張が生じていた武田信玄は、織田信長と同盟関係にあった徳川家康と協調し、駿河の今川氏領国への侵攻を開始します。

それに対抗するため相模の北条氏は、上杉謙信と和睦・同盟を結び武田信玄に対抗しようとします。すると武田信玄は同盟関係にあった織田信長に頼み、信長と将軍・足利義昭を通じて上杉氏と和睦を開始します。

結果、上杉氏と北条氏の不和から越相同盟は成立しませんでしたが、代わりに1571年には武田氏と北条氏の間で甲相同盟が回復しました。

その頃の信長は、信玄から頼まれていた甲越和与のために奔走していましたが、1572年10月信長は足利義昭に対して17条の詰問文を送り関係が悪化してしまいます。

同じころ武田信玄は将軍・足利義昭に応じて「西上作戦」を開始、上杉謙信に対しては石山本願寺や椎名氏・神保氏といった越中の諸将を調略して越中大乱を起こさせ、謙信を越中に留まらせることに成功します。

織田軍は朝倉・浅井をはじめ、三好氏や松永氏による反乱を鎮圧するために軍を分散しており、徳川家康も先だっての武田との闘争・「一言坂の戦い」で大敗を喫し、自軍のみで武田に対抗することは不可能な状態でした。

濃越同盟は謙信優位な条件

濃越同盟とは、織田信長と上杉謙信による軍事同盟で、この同盟が締結したのは1572年11月です。

元々、織田信長は甲斐の武田信玄との間に同盟を結んでいました。今まで友好関係にあった武田信玄の行動に危機を感じた織田信長は、上杉謙信に対して協力を持ちかけ軍事同盟を締結しました。

この同盟は信長側から謙信に対して人質を差し出し、謙信側からは人質が差し出されていない謙信優位の軍事同盟でした。

武田信玄に対抗するために締結された濃越同盟でしたが、締結された翌年の1573年4月に信玄が血を吐いて倒れたため、西上作戦中だった武田軍は甲斐へと撤退し収束します。

その後も濃越同盟は継続し、信長は謙信に対して南蛮式マントなどの贈り物を送っていたそうです。この時点では織田信長と上杉謙信は特に争うこともなく平穏な仲に見えます。

織田信長が上杉謙信に対して挙兵したということも特には見当たりません。信長も贈り物をするなど謙信と友好的に接することを望んでいるような気がします。

しかし、そんな織田信長と上杉謙信ですがついに敵対関係になってしまいます。


信長と謙信が敵対関係に

1575年、信長は権大納言に任じられ、征夷大将軍に匹敵する右近衛大将を兼任しました。このことで朝廷から天下人であることを公認されたことになります。

1576年に安土城の築城を開始し、順風満帆でしたが、ちょうど安土城の築城が開始されたころ、信長に誼を通じていた丹羽国の波多野氏が反旗を翻し、石山本願寺が再挙兵、再び信長に対抗する動きが強くなり始めます。

それに対して信長は明智光秀らをはじめとして、3万の兵を大坂へと送りこみ、さらには信長自らも出陣し本願寺勢を撃破。

しかし、本願寺の援軍に訪れた毛利氏の水軍800隻を前に織田の水軍は敗れました。本願寺は信長に対して挙兵したものの、長島・越前と信長に敗北を喫して追い詰められていました。

そこで、本願寺を束ねる顕如は、長尾能景の時代から敵対していた上杉氏との和睦を模索し始めます。また、足利義昭は、上杉・武田・北条の和睦を調停しようしますが失敗に終わります。

しかし、これにより織田と上杉の関係は変化。北陸の一向門徒が謙信に助力を求めたこともあり、長い間不仲であった顕如と上杉氏は和睦し同盟を結びました。

そのため、信玄亡き後も続いていた濃越同盟は消滅し、信長と謙信は敵対関係になっていきます。


強過ぎる上杉謙信

本願寺の顕如と和睦したことで上洛への道が開けた謙信は、1576年能登国へと侵攻を開始、能登国内の諸城を次々と攻略した後に難攻不落を謳われる七尾城を包囲しますが、関東で北条氏政が進軍を開始したことを受け、春日山城へと撤退しました。

その間に攻め落とした能登国の諸城は、次々に敵の手へと落ち、謙信は1577年閏7月に再度能登へ侵攻し、七尾城を再び包囲します。

城内に蔓延していた疫病により、国主・春王丸までもが病没しましたが、長続連は織田信長の援軍に期待し、降伏はしませんでした。

力で攻め落とすことが困難であると感じた謙信は調略を試み、遊佐続光に反乱を起こさせることに成功しました。

この頃、長続連から援軍要請を受けていた織田信長は、柴田勝家を総大将として救援部隊を編成し、ついに謙信との戦いを決意します。

羽柴・滝川・丹羽・前田・佐々らが率いる3万あまりの軍勢は、一向一揆と交戦しながらも侵攻して行きます。

しかし、途中で柴田と意見が合わなかった羽柴が自軍を引き上げてしまい足並みがそろわず、七尾城が落城したことも知らないまま、手取川を渡って水島に陣をはりました。

このことを知った謙信は数万という大軍を率いて一気に南下し、形勢不利を悟って撤退を開始した織田軍を謙信率いる上杉軍本隊が追撃、手取川を渡ることに手間取っていた織田軍を撃破します。

1577年12月春日山城へと帰還した謙信でしたが、翌年の遠征準備中に城内の厠で倒れ、昏睡状態のまま死去しました。

1578年には上杉の跡目争い「御館の乱」が起こり、この機に乗じて信長軍は斎藤利治を総大将とし、飛騨から越中へと侵攻して上杉軍に勝利を収めました。

一説によると織田信長は上杉謙信を恐れていたと言われています。武田と同盟関係にあったのも武田信玄に対して恐れがあったからでしょう。

戦術に長け部下を上手く使った戦いも多かった織田信長と、戦闘を切って戦に出ることが多かったと言われる上杉謙信。

戦国という時代でなく出逢っていたら、反発しながらも手を組むと最強の良い友人になれていたかもしれませんね。

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