織田信長と今川義元


今川義元は、戦国時代に駿河国・近江国の守護大名であった今川氏の第11代当主として生まれました。

今川氏親の5男として正室の母の元に生まれましたが、すでに同母兄の氏輝と彦五郎という後継者がいたため、4歳で仏門へと入り太原雪斎に預けられました。

さらに妙心寺で雪斎と共に学識を深めましたが、1536年家督を相続する予定だった兄・氏輝と彦五郎が相次いで急死。

重臣たちから還俗を請われ還俗し、主君で本流である足利義晴から偏諱を賜り、名を今川義元と改めました。

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織田信秀との戦い

翌年の1537年には抗戦していた甲斐の武田信虎の娘を正室に迎え同盟を結びます。これにより古くから同盟を結んでいた相模の北条氏綱の不興を買い、北条氏は駿河国へと侵攻。

時同じくして尾張から信長の父・織田信秀が三河国へと侵攻を開始。義元は三河に援軍を送り織田勢力に対抗しますが、織田の猛攻の前に敗れてしまいます。

1549年、松平広忠が死去し、領主不在となった西三河へと侵攻。今川の配下におくと捕えた織田信広と交換する形で後の徳川家康を奪還し、尾張へ進出するための足掛かりとしました。

1553年には今川領国を統治しているのは足利将軍家ではないとして室町幕府との関係を断ち、守護大名から戦国大名へと転身しました。

三国同盟が成立

1554年には一時同盟が破綻していた相模の北条氏康の娘を自分の嫡男・氏真と婚姻させることで再度同盟関係となり、甲斐・相模・駿河の三国同盟が成立しました。

1555年の川中島の戦いでは武田と上杉の仲介・和睦させ、1558年に家督を今川氏真に譲り、自身は隠居しました。

家督を譲った義元は三河の政治に集中し、三河の鎮圧と経営が安定してからは尾張方面への侵攻を開始しました。

今川義元の最期

1560年に那古野城を目指し侵攻していた義元は、大高城で動きを封じられていた朝比奈照勝らを救出するべく、徳川家康が包囲している織田軍を攻撃させ、桶狭間の戦いにおける前哨戦に勝利。沓掛城から本隊を移動させました。

しかし、移動途中に休息していた桶狭間山で織田信長からの攻撃を受け奮戦したものの、織田家の家臣である毛利良勝によって自身の愛刀である宗三左文字を奪われ首をとられました。享年42歳。

遺体は生き残った今川の兵士たちが駿府まで連れ帰ろうと試みたそうですが、首を失った義元の遺体は腐敗の侵攻が存外に早く、三河国に埋葬されたということです。

この時に討ち取られた義元の首級は義元の重臣・岡部信元と信長により行われた鳴海城の開城交渉締結後に返還されました。

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桶狭間の戦い

今川義元・最期の戦いとなった桶狭間の戦いでは、今川軍2万以上に対して織田の軍は3000~5000と何倍もの差があったようです。

しかし、相手が休息中に奇襲をかけることで見事に織田軍は勝利をおさめました。そのため日本三大奇襲に数えられるほどの有名な合戦になりました。

その後、三河の領国の回復をはかった徳川家康は今川氏真が義元の仇討ちに出陣しないことを理由に今川氏から完全に離反し、1562年織田信長と同盟を結びました。

これにより東から攻め込まれる心配がなくなった信長は、美濃国の斎藤氏との交戦に集中することが出来るようになり、急速に領地を拡大していきます。

真実はわかりませんが、大高城で今川方に勝利をさせたところから信長の作戦だったとすると相当な戦上手ですよね。前哨戦に勝って移動している休息中を狙って攻撃をしかけたわけですから……。


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