織田信長と武田勝頼
武田勝頼が家督を相続
武田信玄と諏訪頼重の娘・諏訪御領人との間に誕生した庶子で信玄の四男となる勝頼は、当初諏訪氏を継いで高遠城の城主を務めていました。しかし、信玄の嫡男である義信が1565年10月に信玄暗殺を企図した謀叛に関わったとされ、幽閉され廃嫡となったため、盲目であったと言われる次男、要請した三男にかわって武田氏を継ぐこととなりました。
この頃の武田氏は相模の後北条氏と甲相同盟を結び、将軍足利義昭の信長包囲網に参加していました。
1572年には西上作戦を開始し、勝頼は従兄弟の武田信豊、御一門衆の一人である穴山信君と共に大将を務め、12月には「三方ヶ原の戦い」において織田・徳川の連合軍と戦います。
しかし、1573年4月12日父・信玄が西上作戦途中で病死。勝頼が武田の家督を相続し20代目当主となりました。
この時、表向きには信玄が隠居し、勝頼が家督を継いだということになっており、これは信玄の遺言によるもので3年間は信玄の死が隠されました。
長篠の戦いで大敗
家督を相続した勝頼は勢力を拡大するため、1574年に織田信長の領地・東美濃に侵攻。明知城を落城させ、援軍に出陣しようとした信長は落城を知り、岐阜城へと撤退します。1575年には徳川家康方に寝返った奥平親子を討伐するため、勝頼は1万5000の兵を率いて三河国へ進軍し、5月には奥平信昌が籠城している長篠城への攻撃を開始。
しかし、奥平の善戦により攻略までに時間がかかってしまい、その間に織田と徳川の連合軍が設楽ヶ原に到着。勝頼は長篠城へ兵3000を残し、設楽ヶ原へ進軍、織田・徳川の連合軍との決戦の火ぶたが切って落とされました。
織田と徳川の連合軍はおよそ3万8000。対する武田は1万2000。兵力で劣る武田軍は土屋昌次が戦死し、攻め込む勢いが喪失し総崩れとなり敗走。
そんな中、山県昌景や真田信綱兄弟など多くの家臣が命を落としました。
上杉氏との和睦に成功
長篠の戦い後、紀伊国へと亡命していた将軍・足利義昭が、武田氏・後北条氏・上杉氏の三者間で和睦する様に呼びかけ、上杉と後北条間の和睦はなされなかったものの、勝頼は謙信との和睦に成功します。1577年に北条氏政の妹を後室に迎えることで、織田と徳川から窮地に立たされていた武田氏の外交は改善されることになりました。
しかし、1578年3月に上杉謙信が城内で倒れ、帰らぬ人となると上杉氏の跡目争いである御館の乱が起こり、勝頼は北条氏政から景虎支援を要請され、越後国へ向けて出兵し、景勝と景虎の間の調停を試みました。
これにより勝頼は景勝と和睦し、上杉領を接収。8月には春日山城で両者の和睦を成立させましたが、徳川家康による小山城・田中城への攻撃を受け、甲斐国へ帰還する間に景勝・景虎間の和睦は破綻。1579年、景勝方の勝利で御館の乱は収束しました。
御館の乱で明確に景勝を支援してはいないものの、景勝方と和睦していた勝頼と後北条氏との関係は悪化し、同盟は破綻、領国を接する場所では抗争状態となりました。
また、徳川家康と後北条氏が同盟を結んだことで、駿河において挟み撃ちをされる形となった勝頼は自身の妹である菊姫を景勝に嫁がせ軍事同盟に発展させます。
この同盟は対徳川・後北条というよりは対信長として機能し、その後佐竹義重と同盟を結び、里見義頼らと連携を模索しながら後北条に対抗しました。
しかし、後北条と徳川の攻撃に加え、信長との和睦を試みていた勝頼が窮地に陥った高天神城を支援しないまま高天神城が落城すると武田家の威信は失墜。
武田氏の滅亡
和睦交渉を続けていた織田信長とは、武田家に人質として来ていた織田信房を織田家に返したものの、一方で信長は朝廷に働きかけ、正親町天皇に勝頼を朝敵と認めさせ1582年武田領を攻撃しました。武田領には伊那方面から織田信忠、飛騨国から金森長近、駿河国から徳川家康、関東から北条氏直が侵攻を開始し、加えて織田信長の軍も侵攻を開始。
武田軍から離れる者が相次ぎ、勝頼は武田氏ゆかりの天目山棲雲寺を目指しましたが、途中で嫡男・信勝や正室である北条夫人とともに自害、甲斐武田氏は滅亡しました。
勝頼は無能な武将だったと言われることが多いのですが、勝頼の生前は上杉謙信が信長に勝頼の武勇を警戒する様に注意しており、甲州征伐の際に信長は最後まで勝頼が戦いを挑んでくることを警戒していたようです。
そんな信長が勝頼の首級と対面して「日本にかくれなき弓取りなれども、運がつきさせたまいて、かくならせ給う」と言っており、謙信からも信長からも評価されるほどの武人だったようです。
勝頼自刃から数か月後、織田信長は「本能寺の変」に倒れました。
勝頼があと数カ月持ちこたえていたら違った結末があったかもしれませんね。こればかりは信長様が言った通り、「勝頼は運がなかった」ということなのでしょうか….