織田信長と浅井長政


戦国武将の浅井長政を知っていますか?北近江を治めていた戦国大名浅井氏の3代目当主です。悲運にも浅井家最後の当主となってしまいました。

織田信長の妹・お市の方を妻にし、織田とは同盟を結びますが最期は信長と対立し自害してしまいます。私は長政に対して何となく気が弱そうなイメージがあるのですが、本当はどんな人物だったのでしょうか。

浅井長政、彼が生きたのはたったの29年間。今回は浅井長政について詳しく解説していきます。

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浅井長政の祖父と父

長政の祖父・亮政は元々北近江の守護・京極氏に仕えていました。ちょうど亮政が家督を継承した頃、京極氏の当主であった京極高清が家督を次男の高吉に譲るという意向を示しました。

高清の長男・高延を後継者として押していた亮政は、浅見貞則と共に主君である高清と高吉、そして高吉を推し対立していた上坂信光を尾張へと追い出しました。

浅井長政その後、京極氏は国人一揆が主導することになり、専横を極めた浅見貞則を追い出し、亮政は京極家中での実権を握り北近江での勢力を築きます。

しかし、勢力拡大に伴い、南近江の六角氏と対立するようになり、また、亮政の傀儡と化していた京極高延が父・高清と和解し、反亮政勢力と共に亮政と対立するようになります。

一度は和解しますが1541年再び高延らが反旗を翻し、対立が解決しないまま1542年に亮政が死去。

家督は長政の父・久政が継ぎましたが義兄の田屋明政はこれを良しとせず、反乱を起こしたため、久政の家督相続は家中に禍根を残すことになりました。

また、久政は父・亮政と違って武勇にさえなかったといいます。久政が家督を継いでから浅井家は、次第に六角氏の勢力に押され六角氏の配下となります。

嫡男に六角義賢から一字偏諱として受けさせ「賢政」と名乗らせたり、六角家の家臣・平井定武の娘を賢政の妻にしたりと六角氏に対して徹底的に従属しました。

そのため、久政の弱腰な外交に家臣たちの多くが不満を持ちはじめ、久政は家督を長政に譲るよう強要され強制的に隠居させられてしまいます。

隠居しても尚、久政は父・亮政以来の朝倉氏との友好関係に固執し、織田との同盟には反対していたということです。

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浅井長政の生涯

知勇に優れた期待の武将・浅井長政は、1545年六角氏の居城である南近江の観音寺城下で生まれたと言われています。

祖父が下克上で手に入れた北近江の土地を失い、六角氏に臣従していた父・久政は六角氏との外交に力を入れ、かろうじて北近江の維持を図っていました。

長政が15歳で元服すると六角義賢から偏諱を受け賢政と名乗らせ、六角氏家臣の平井定武の娘を妻にすることを強要したのは先にも書いた通りです。

しかし、この弱腰外交に家臣たちは不満を覚え、知勇に優れた長政に期待を寄せ、長政に家督を相続させようと久政を強引に隠居させ、長政は浅井家3代目の家督を相続します。

1560年六角氏との「野良田の戦い」に長政は15歳という若さで勝利します。この時、軍を率いて見事な戦いをした長政に重臣たちは心酔したそうです。

長政は六角氏からの独立の意志を表明するために「賢政」の名を返上、さらに妻の平井貞武の娘も六角氏に返上して、名前を新九郎に戻しました。

この合戦では長政が朝倉に援軍を求めた様子はなく、合戦後は朝倉との関わりを少なくしています。1563年、六角氏の筆頭家臣・後藤賢豊が暗殺される「観音寺騒動」が起こり、六角を離れて浅井に仕官するものも多くいました。

 

織田信長と同盟を結ぶ

1564年、尾張を中心に勢力を伸ばしていた織田信長が美濃の斎藤氏を牽制するため、不破光治を使者として同盟を持ちかけてきます。

この同盟の条件は浅井にとって有利な条件でしたが、浅井家の家臣たちは久政の盟友朝倉義景と織田信長が不和であることから反対するものも多くいたようです。

しかし、この同盟は浅井家にとっても悪いものではなく、織田信長の妹で当世一の美女とうたわれた「お市の方」を長政の妻とし、織田家と浅井家は婚姻関係によって同盟を結びます。

これにより織田は美濃の斎藤氏を牽制するとともに上洛への経路を確保したことになります。この時、急激に力をつけてきていた織田信長からあやかって「長」の一字をもらい、長政としたという説もありますが、真実はわかりません。

織田信長は浅井長政との同盟を大変喜び、婚礼の資金をすべて織田で出したほどでした。当時のしきたりとしては、この場合の婚礼資金は浅井が出すのが普通だといいますから、本当に嬉しかったのでしょう。

織田信長は、浅井長政のことをとても気に入っていたようです。

1568年7月越前国に滞在していた足利義昭は、上洛に対して積極的ではない朝倉義景に見切りをつけ、織田信長を頼り尾張へいきます。これにより、織田信長は足利義昭を奉戴し上洛を開始。

上洛する途中で浅井と対立していた六角氏を攻撃し、南近江の甲賀軍に撤退させると浅井氏も上洛しました。

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織田信長に裏切られる

1570年、長政にとってショッキングな出来事が起こります。それは同盟を結ぶ際に信長が長政と交わした「朝倉への不戦と誓い」を破り、三河の徳川家康と共に越前の朝倉方の城を攻めはじめるのです。

元々、朝倉氏と信長は不仲でしたが、朝倉とは長い親交と恩がある浅井家は、その不仲を無視することはできず、信長との同盟の際に朝倉氏とは、敵対しないという条件を付けていました。

その後、正式に将軍についた「義昭の下へ参内せよ」という命令書を幾度となく無視し続けられた信長は怒り、ついに朝倉家討伐のための挙兵をしたのです。

本来、朝倉家への挙兵はしないことになっているのですから、やむを得ず挙兵するにも浅井家に一言あってもいいところですが、信長はこれを浅井家には何も言わず攻撃を開始しました。

これにより浅井長政は、織田信長と朝倉義景の間で板挟みとなってしまいます。

古くから親交があり、六角氏との戦いにおいて恩がある朝倉氏につくべきか、妻の兄で同盟相手の織田信長につくべきか、長政も相当迷いました。

浅井家の家臣たちは隠居させた長政の父・久政を担ぎ出し朝倉につくよう説得します。結局、長政は朝倉家との義を重んじ、織田の軍を攻撃する準備を始めます。

そして背後から織田の軍を急襲しましたが織田信長は近江国から脱出。

この時、長政の動きを察知した信長の妹・お市の方は、陣中見舞いと称して織田の軍が挟み撃ちにされることを教えたと言われています。そのため、信長はいち早く脱出することができたのだとか…..。

 

姉川の戦い

そして姉川の戦いが起こります。同年6月に長政は、朝倉の軍と共に近江国の姉川で織田と徳川の連合軍と刃を交えます。

織田軍は13段の構えで浅井軍に対峙しますが、浅井軍の先鋒・磯野員昌が猛攻を見せ、11段まで突破しますが、側面を攻められてしまい、この戦いは織田と徳川の連合軍が勝利します。

姉川の戦いの後、本願寺は織田信長に脅威を覚え、反信長派の大名たちと共に信長包囲網を展開。長政は朝倉軍や延暦寺・一向宗徒等、やはり信長に対して敵対心を持つものたちと連携し再び、信長への攻撃を仕掛けていきます。

結果、織田の重臣である森可成や信長の実弟・織田信治を討ち取ることに成功します。

しかし、信長が足利義昭に浅井・朝倉氏との和睦朝廷を頼み、関白・二条晴良に調停を要請すると1570年12月13日正親町天皇の勅命をもって浅井・朝倉両氏との和睦に成功し、信長は窮地を脱しました。

ここまで織田信長がやるということは、浅井・朝倉の勢いは凄かったということでしょうね。

しかし、浅井・朝倉と協力関係にあった延暦寺は、1571年9月に信長によって焼き討ちされてしまいます。この焼き討ちが物凄かったというのは有名な話です。

この焼き討ちは僧だけにとどまらず、寺にいた女子供も関係なく殺されています。延暦寺の焼き討ちで命を落としたものは3000人とも4000人とも言われています。

延暦寺や日吉大社は消滅し、近江の寺社・社領はことごとく没収されてしまいました。

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浅井長政滅亡へのカウントダウン

1572年7月、織田信長は浅井家の本拠地・北近江に進軍してきます。織田の来襲に長政は父・久政の代から同盟相手である朝倉氏に援軍を要請。朝倉義景は15000の軍を率いて近江に駆けつけました。

信長と正面衝突にはならず、両者にらみ合いが続いていましたが、軍勢は明らかに織田軍が優っており、浅井・朝倉の両軍は苦しい状況に立たされました。

浅井長政同年9月には将軍・足利義昭と織田信長の関係は悪化しており、義昭は甲斐の虎・武田信玄に援軍を要請します。

それに応えて信玄は山県昌景と秋山虎繁の支隊を徳川の三河へ向かわせ、自らは馬場信春とともに遠江に向かいました。

その時に信玄は浅井・朝倉に対して信長への対抗を要求し、次々と織田方の城を落としていきます。

長政に与えられた役割は、信長を岐阜に戻さないように足止めすることでしたが、織田の軍勢に少しずつ押され、追い詰められていきます。

1573年7月、織田信長は30000の軍を率いて再び北近江に攻め込んできました。

長政は義景に援軍を要請し、義景も20000の軍で駆けつけますが、織田の猛攻は凄まじく北近江の城はあっという間に落とされ、義景は越前国へ撤退します。

しかし、信長は逃げる朝倉の軍を追撃し、一乗谷の戦いで朝倉氏を滅亡させました。

その後、信長は軍を長政へと向けてきます。こうなると浅井の軍は少しずつ勢力を削られ、ついに浅井の本拠地・小谷城が織田の軍勢に囲まれます。

信長は羽柴秀吉・不破光治を使者として送り、長政に降伏するよう勧めますが長政は断り続け、織田信長からの最終勧告も断り、織田と浅井は決裂してしまいます。

「もはやこれまで」と長政の父・久政が8月27日に自害。翌日の28日には小谷城内の赤尾屋敷にて長政自害。享年29歳でした。

その後、朝倉義景と浅井久政・長政父子の首級は薄濃(はくだみ)にされ、織田の内輪の宴席で披露されたということです。よく、彼らの髑髏(どくろ)に酒を入れて呑んだという話を聞きますが、織田信長はあまり酒を好まなかったようで創作ではないかと言われています。

いかがでしたか?浅井長政は織田信長に気に入られていたにも関わらず、自害に追い込まれてしまいました。朝倉ではなく、織田との同盟を優先していたら彼の運命はどうなっていたのでしょうね。

余談ですが、長政の娘3人はこの後も戦国の世を強かに生き続けました。彼女たちが幸せであったとしたなら、長政の菩提も少しは救われるのではないでしょうか。


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