織田信長と森蘭丸


織田信長とセットでついてくるのが森蘭丸ですよね。ご一緒にポテトはいかがですか?みたいな感じで、織田信長と言えば森蘭丸、森蘭丸と言えば織田信長です。

森蘭丸は織田信長の小姓ですが、実際はどんな人物だったのでしょう。いつも一緒なんて元腐女子としてはちょっと気になるところです。主君と小姓って本当はどんな関係なのかしら?

ということで森蘭丸について詳しく解説していきます。

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森蘭丸はどのような人だった?

織田信長の家臣・森可成と正室・えいとの間に、6人兄弟の3男として1565年尾張葉栗郡蓮台に生まれます。蘭丸の父・森可成は愛妻家でこの時代には珍しく、蘭丸の兄弟はすべて可成とえいとの間に生まれた子供だそうです。

森蘭丸母のえいという人は、石山合戦の時に石山本願寺との和睦成立のために奔走した妙向尼のことです。

元々の家系は清和源氏の一家系で、河内源氏の棟梁・鎮守府将軍八幡太郎義家の7男・陸奥七郎義隆の子孫にあたるようです。この家系のことが後でちょっと関わってくるので頭の片隅に入れておいてくださいね。

1577年5月に弟の坊丸・力丸と共に織田信長の小姓として召し抱えられます。この年から1582年本能寺の変で織田信長をかばい、討死するまでずっと織田信長の側近として仕えることになります。

織田信長の使者として塩川国満に銀子100枚を届けたり、河内金剛寺に行ったり、信忠・信雄・信孝に脇差を届けたり、武田の旧臣に朱印状を届け、斎藤六太夫に褒美の品を届ける等…..何でも織田信長は森蘭丸に頼んでいる感があります。

まぁ、小姓さんですからね。それが仕事なのかもしれませんが何だかとても忙しそうです。森蘭丸はどこへ行っても品行方正だと褒められていたそうです。

だからこそ頼んだのかもしれません。蘭丸ならどこへ行っても「使いを果たしてくれる」という信頼があったのでしょう。

 

小姓とはどのような役割か

森蘭丸がやっていた小姓とは、どんな役割があったのでしょうか?

小姓というのは武士の役職の一つで、武将の傍について様々な雑用をこなしていたようですが、織田信長や森蘭丸が生きていた戦国時代や安土桃山時代では、秘書のような役割も果たしていたようです。

戦の時や行軍の時は本陣や本隊を最後まで守り抜く部隊となり、主に主君の盾となって命を捨てても守る役目が大きかったみたいですね。

そのため、幅広い知識と教養、一流の作法が必要とされ、さらには武芸にも長けていなければならないというエリートだったようです。

そして小姓というのは主に元服前の少年が担っていたのですが、成長すると主君の側近として活躍するものも多くいたようです。前田利家や直江兼続、石田三成なども小姓の経験があるそうですよ。

さらに当時、「女性は不浄のもの」とされていたため、戦の時など女性を連れていくことは無く、衆道の対象としての役目もあったそうです。美少年だったという伝承が多いのはこの為かもしれません。

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織田信長の自慢BEST3に入る

織田信長は側近や他の大名たちに「自慢できるもの」は、第一が奥州から献上された白斑の鷹、第二に青の鳥、そして第三は森蘭丸だと言っていたようです。

信長さまったら、お蘭ちゃんのことが本当にお気に入りだったのですね、ウフフフ…という腐女子根性に火が付くような関係の二人ですが、他にも森蘭丸にはこんな逸話が残っています。

褒美のためでも不正はしません

ある日、信長は小姓を集めて言いました。「わしの刀の鍔の部分に模様がいくつあるか当てられたら、褒美として太刀やろう」そこで小姓たちは思い思いに答えたが、なぜか蘭丸だけは答えようとしませんでした。

「お蘭、なぜ答えぬ」と信長が尋ねたところ蘭丸は「実は殿が用を足している間に数えたことがあって、答えを知っているからです」と正直に答えました。黙っていればわからないのに…..信長はその正直な言様に蘭丸に太刀を褒美としてあげたそうです。

殿には恥をかかせません

あるとき信長は蘭丸に「隣の座敷の障子が開いているから閉めてくるように」と命令しました。ところが行ってみると障子はしまっていました。そこで蘭丸は障子を一つ開けると、わざと音を立てるようにして閉めました。

そして、信長に障子は閉まっていたことを報告すると、信長はではなぜ音がしたのかと蘭丸に尋ねました。

すると蘭丸は「殿が開いていると言ったにもかかわらず障子が閉まっていたとあっては主君に恥をかかせることになりますから、わざと音を立てて閉めたのです」と説明しました。

指の数は十本です

ある日信長は爪を切っていました。十本すべて切り終わるとその爪を扇子の上にのせ小姓に捨ててくるように命じました。しかし、小姓が捨てに行こうとするとそれを止めました。

そして蘭丸を呼び、爪を捨ててくるように命じました。すると蘭丸は扇子の上の爪の数を数えると「殿、あと一つをどこへやったのですか?」と信長に尋ねました。

信長の扇子の上には九つしか爪がなかったため、蘭丸は捨てに行かなかったのです。そして蘭丸は残りの一つを拾い上げると信長の爪を捨てに行きました。信長はさすがお蘭、わしのことをよくわかっておるとご満悦だったそうです。

さすが森蘭丸。こんなに細かく気づかってもらえたなら織田信長だってご寵愛ですよ。その上、眉目秀麗な美少年ならら誰だって自慢しますよね。

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 森蘭丸の余談

そうそう、余談ですが、織田信長が浅井・朝倉軍に協力した比叡山延暦寺を焼き討ちにしたのは有名ですが、実はその裏に森家も少なからず関わっていたようです。

森蘭丸1570年におきた宇佐山城の戦いで、織田信長の古くからの家臣で美濃衆として活躍した森蘭丸の父・森可成が討ち死にしています。

当時、宇佐山城にいた可成は浅井長政・朝倉義景の連合軍が出撃したとの連絡を受け、今の滋賀県大津市にあった坂本に陣をはり街道を封鎖しました。

その時、可成は1000人程の軍勢を率いていましたが、相手の3万もの大群を撃退していました。

しかし、石山本願寺の顕如の要請を受け、比叡山延暦寺の僧兵も連合軍に加わるとはじめは健闘していたのですが、終には信長の弟・織田信治らと共に討死してしまいます。

森可成の訃報を受けた織田信長は深く悲しみ、直後に弔い合戦として比叡山延暦寺及び比叡山の隠居した僧侶たちが住む里坊の多かった坂本の町を悉く焼き討ちにしました。

森家と延暦寺は、祖先の源義隆が比叡山の僧兵の矢に撃たれたという因縁の仲であり、さらに可成が討ち死にする原因の一つともなりました。祖先から続く積年の恨みが焼き討ちという形で果たされたわけです。

しかし、悉く焼き払われた延暦寺とその周辺ですが、かなりの墓所がある聖衆来迎寺だけは手出しされなかったようです。

彼が亡くなった年1582年には領地替えとなった兄・長可に代わり、岩村城の城主となり5万石を与えられています。

城にはいなかったようですが…..最期まで主君・織田信長の傍を離れず、守り通した森蘭丸。18歳という若さでこの世を去った彼ですが、この優秀な信長の秘書は、いつまでも人の歴史にその名を残すことになるでしょう。


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