3分でわかる織田信長の歴史

織田信長の性格

織田信長といえば泣かないホトトギスは殺してしまう、自分に敵対していれば寺院でも女子供がいようとも焼き討ちにしてしまうなど残忍で冷酷なイメージがありますが、その一方で家臣たちからの信頼は篤く、本能寺の変の際、明智光秀は本能寺にいるのが織田信長だということを隠して奇襲をかけたと言います。
冷酷無比だと言われている織田信長の本当の性格はどんなものだったのでしょう。今回はフロイスの記述を基に織田信長の性格を探ってみたいと思います。
 
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冷酷?残虐!?織田信長の性格

織田信長織田信長の性格を探るのにまずイエズス会の宣教師で織田信長とも会見し、畿内での布教活動を認められて後、信長についても記述のある「日本史」を残したルイス・フロイスによれば織田信長は「長身、痩躯で、髭は少なく、声は甲高い。常に武技を好み粗野。酒をほとんど嗜まない」と記されています。

長身で痩躯、その上声が甲高いというとイメージとしては何か神経質そうな感じですよね。声は500m先からでも聞えたというくらいに高い声だったみたいです。

甲高い声というキーワードから織田信長の性格を探ってみると、普段から声のトーンが高い人というのは基本的にわがままで自己主張が強く、興奮しやすい性格だそうです。

ちょっとしたことで興奮しやすく、自分の考え方をいつも正しいと思いがちで人にも自分の考え方を押し付けようとします。

人間の声のトーンは幼児からだんだんと成長するにつれて低くなってくるのに対して、いつまでも声のトーンが高い人は自己規制が苦手で、幼児性が強い人だと判断できるようです。どうなんでしょうね?

 

信長の心温まるエピソード

さらにフロイスは信長をこのように評しています。「正義感と慈悲に関係あることは喜んで実行する男である。」ちょっと性格よさそうなところが書かれていますね。これについては「信長公記」の中に心温まるエピソードがありましたので紹介します。

美濃と近江の国境近く、現在の関ヶ原町山中に「山中の猿」と呼ばれている体に障害のある男が街道沿いで乞食として暮らしていました。

当時、岐阜と京都を頻繁に行き来していた信長は、障害があるが故に普通の生活を送ることができずにいるこの男を度々見かけては哀れに思っていたようです。

1575年上洛の途中、山中村の人々を呼び集めた信長は木綿20反を「山中の猿」に与え「これを金に換えて、この者に小屋を建ててやれ。

それから、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と村人たちに頼みました。その信長の行動に本人だけではなくその場にいた人々は皆涙を流したと伝わっています。

信長いい人……。今まで髑髏でお酒を呑ませるなんて変態!!とか思っていてごめんなさい。

それに加え、多くの文献の中には信長が庶民や武士などの身分にかかわらず交流があったことも書かれています。

元々、信長は母親が弟ばかりを溺愛したせいか尾張の大うつけと呼ばれるほどで、幼いころから奇行や奇抜な行動が多く、町の若者と遊んでいたみたいですから、身分にはこだわらない性格だったのでしょう。

こばかなフリだったという説もありますが、庶民とも分け隔てなく仲がよかったという内容の文献は多く残っています。庶民と共に踊ったり、工事の音頭を自らとったりしていたようです。意外とフレンドリーな人ですね。

 

でもやっぱり信長は信長

フロイスはさらにこう記しています。「傲慢で神をも恐れぬ人物で、名誉を重んじることこの上なし。決断を内に秘め、軽々しく外に表すことがなく、戦術も巧みである。戦術を立てる際に部下の進言を聞き入れることは滅多にない」

織田信長さすが信長さま。他人の意見は聞かないそうです。あまりにも人の話を聞かな過ぎたのが原因なのか教育係の平手政秀は信長の行動を諌めるために切腹したと言われています。

ちょっと過激な説教ですね。政秀の死は息子と確執があったためとも言われていますが、とにかく政秀の死を受け信長は深く悲しみ、菩提を弔うために政秀寺を建立しました。

こんなはずじゃなかったのに…死ななくてもいいじゃない……と信長が思ったかどうかはわかりませんが、平手政秀は信長の父・信秀の時からの重臣で信長の初陣の後見役を務めたり濃姫との婚約を取りまとめたりしてくれた人物です。

信長に意見するのは命がけでということなのでしょうか?

他にも「すばらしい理解力と明晰な判断力を持ち、神仏やその偶像を軽視し、卜占など全く意に介さない。他人と語る場合は、その相手が回りくどい説明などすると、すぐに嫌な顔を見せる」とフロイスは書いています。

神をも恐れず、神仏を軽視していた信長は自分の意見と合わないものや約束や規則を破る人が嫌いだったようで、その憎悪は執拗で、とても執念深かったようです。

延暦寺も女子供問わず焼き討ちにされていますし、家督争いの際に信長の弟・信行を擁立して、信長を排斥しようとしていた者たちを20年以上もたってからその話を持ち出し、追放していたりしています。

僧たちが権力や軍事力を持ったり、女に溺れるなど宗教としての意義を忘れているとしか思えない僧侶たちの腐敗ぶりを批判しています。

比叡山を焼き討ちにした際も女子供まで容赦なかったようですのでやるときはとことんやるタイプなのかもしれません。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。

正義感が強く曲がったことが大嫌いという書き方をするとヒーローっぽいですね。

 

残虐無比な信長の意外なエピソード

信長は周囲の人に第六天魔王とは思えないほどの気遣いと優しさを見せるときがあったようです。先にも書いた「山中の猿」の話もそうですが、秀吉の浮気に怒ったねねに対して、信長はねねの味方をして、焼きもちを焼かないようにといった内容の手紙を書いたといいます。

またルイス・フロイスがポルトガルから来たことを告げると年齢やポルトガルと日本の距離、いつ来たのかなど多くの質問をしますが、「お主の両親は心配していないのか」と聞いたり好奇心旺盛に質問する一方で、フロイスの両親を気遣う一面も見せています。

信長は楽しいことも大好きだったようで、相撲の大会を開いたり、安土城をライトアップさせて城下町の人々を楽しませたりと信長自らが主宰・参加して楽しんでいたようです。

いくつかのエピソードとフロイスが書き残したことを参考に信長の性格を探ってきましたが、部下や規則を違反するもの、自分と敵対するものに対しては確かに残忍・非道なこともたくさんやっています。私もこの記事を書くまでは信長って冷たい人な印象がありました。

しかし、その一方で庶民と分け隔てなく戯れ、城下町の人を楽しませ、国籍も問わず家臣に登用し、好奇心が旺盛でお茶目な一面も持ち合わせている……そのあまり語られることのない部分が人間・織田信長を魅力的な人物として後世に伝えているのでしょうね。
 

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