織田信長の性格
織田信長といえば「泣かないホトトギスは殺してしまう」という、自分に敵対するのなら寺院でも女・子供がいようとも焼き討ちにする等の残忍で冷酷なイメージがあります。
その一方で、家臣達からの信頼は篤く、本能寺の変の際には明智光秀が本能寺にいるのが織田信長だということを隠して奇襲をかけたと言います。
冷酷無比だと言われている織田信長の本当の性格はどんなものだったのでしょう。今回はフロイスの記述を基に織田信長の性格を探っていきたいと思います。
冷酷残虐で知られる織田信長の性格
織田信長の性格を探るには、イエズス会の宣教師で織田信長とも会見し、畿内での布教活動を認められて後、信長についても記述のある「日本史」を残したルイス・フロイス。ルイス・フロイスによれば、織田信長は「長身、痩躯で、髭は少なく、声は甲高い。常に武技を好み粗野。酒をほとんど嗜まない」と記されています。
長身で痩躯、声が甲高いというとイメージから、何か神経質そうな感じですよね。声は500m先からでも聞えるくらい高い声だったそうです。
甲高い声というキーワードから性格を探ると、普段から声のトーンが高い人は基本的にわがままで自己主張が強く、興奮しやすい性格だそうです。
興奮しやすく、自分の考え方をいつも正しいと思うようで、人にも自分の考え方を押し付けようとする傾向があるようです。
人間の声のトーンは、幼児から成長するにつれて低くなっていくものですが、声のトーンがいつもでも高い人は、自己規制が苦手で幼児性が強い人だと判断できるようです。どうなんでしょうね….
信長の心温まるエピソード
さらにフロイスは信長をこのように評しています。「正義感と慈悲に関係あることは喜んで実行する男である。」ちょっと性格が良さそうなことが書かれていますね。これについては「信長公記」の中に心温まるエピソードがありましたので紹介します。
美濃と近江の国境近く、現在の関ヶ原町山中に「山中の猿」と呼ばれている体に障害のある男が街道沿いで乞食として暮らしていました。
当時、岐阜と京都を頻繁に行き来していた信長は、障害があるが故に普通の生活を送ることができずにいるこの男を度々見かけては哀れに思っていたようです。
1575年上洛の途中、山中村の人々を呼び集めた信長は、木綿20反を「山中の猿」に与え「これを金に換えて、この者に小屋を建ててやれ。それから、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と村人たちに頼みました。
その信長の行動に本人だけではなく、その場にいた人々は皆涙を流したと伝わっています。信長いい人…..。今まで髑髏(どくろ)でお酒を呑ませるなんて変態!!とか思っていてごめんなさい。
それに加え、多くの文献の中に信長が庶民や武士などの身分に関わらず交流があったことも書かれています。
元々、信長は母親が弟ばかりを溺愛したせいか「尾張の大うつけ」と呼ばれるほどで、幼いころから奇行や奇抜な行動が多く、町の若者と遊んでいたようです。身分にはこだわらない性格だったのでしょう。
小馬鹿なフリだったという説もありますが、庶民とも分け隔てなく、仲が良かったという内容の文献は多く残っています。庶民と共に踊ったりしていたようです。意外とフレンドリーな人だったんですね。
でもやっぱり信長は信長
フロイスはさらにこう記しています。「傲慢で神をも恐れぬ人物で、名誉を重んじることこの上なし。決断を内に秘め、軽々しく外に表すことがなく、戦術も巧みである。戦術を立てる際に部下の進言を聞き入れることは滅多にない」さすが信長様です。他人の意見は聞かないようです。あまりにも人の話を聞かな過ぎたことが原因なのか、教育係の平手政秀は信長の行動を諌めるために切腹したと言われています。
切腹とは過激な説教ですね…..政秀の死は息子と確執があったためとも言われていますが、とにかく政秀の死を受けて信長は深く悲しみ、菩提を弔うために政秀寺を建立しました。
平手政秀は、信長の父・信秀の時からの重臣で信長の初陣の後見役を務めたり濃姫との婚約を取りまとめたりしてくれた人物です。信長に意見するのは命がけでということだったのでしょうか?
他にも「すばらしい理解力と明晰な判断力を持ち、神仏やその偶像を軽視し、卜占など全く意に介さない。他人と語る場合は、その相手が回りくどい説明などすると、すぐに嫌な顔を見せる」とフロイスは書いています。
神をも恐れず、神仏を軽視していた信長は、自分の意見と合わないものや約束や規則を破る人が嫌いだったようで、その憎悪は執拗でとても執念深かったようです。
延暦寺も女子供問わず焼き討ちにしていますし、家督争いの際に信長の弟・信行を擁立して信長を排斥しようとしていた者達を20年以上も経ってからその話を持ち出し、追放しています。
信長は僧たちが権力や軍事力を持ったり、女に溺れる等、宗教としての意義を忘れているとしか思えない僧侶たちの腐敗ぶりを批判しました。
比叡山を焼き討ちにした際、女子供まで容赦ありませんでした。やるときはとことんやるタイプなのかもしれません。まさに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ですね。
正義感が強く、曲がったことが大嫌いというと何だかヒーローみたいに聞こえますね。
信長の意外なエピソード
信長は周囲の人に第六天魔王とは思えないほどの気遣いと、優しさを見せる時があったようです。先にも書いた「山中の猿」の話もそうですが、秀吉の浮気に怒った「ねね」に対して信長は「ねね」の味方をして、焼きもちを焼かないようにといった内容の手紙を書いたといいます。
また、ルイス・フロイスがポルトガルから来たことを告げると年齢やポルトガルと日本の距離、いつ来たのかなど多くの質問していく中で、「お主の両親は心配していないのか」とフロイスの両親を気遣う一面も見せています。
信長は楽しいことも大好きだったようで、相撲の大会を開いたり、安土城をライトアップさせて城下町の人々を楽しませたりと信長自らが主宰・参加して楽しんでいたようです。
いくつかのエピソードとフロイスが書き残したことを参考に信長の性格を探ってきましたが、部下や規則を違反するもの、自分と敵対するものに対しては確かに残忍・非道なことも多くやっており、私もこの記事を書くまでは信長って冷たい人な印象がありました。
しかし、その一方で庶民と分け隔てなく戯れ、城下町の人を楽しませ、国籍も問わず家臣に登用し、好奇心が旺盛でお茶目な一面も持ち合わせているのです。
そんなあまり語られることのない部分が、織田信長を魅力的な人物として後世に伝えているのでしょう。