織田信長と濃姫
濃姫は、今から480年ほど前の戦国時代を生きた一人の女性です。教科書や日本史の授業で耳にしたことがある人も多いのではないでしょうか。
少し前に濃姫は、信長協奏曲というドラマで柴咲コウさんが演じていましたね。ドラマの中では帰蝶さまと呼ばれていました。織田信長の正室です。
今回は戦国時代を生きた濃姫について詳しく解説していきますが、あまりにも謎が多過ぎる方なのです。
まず、文献自体がほとんど残っておらず、特に信長に嫁いだ後は、離婚説や早世説など諸説にわかれています。じつにミステリアスですね。
信長の妻
濃姫については本当に資料がないため、信憑性は定かではないことを先に記しておきます。濃姫は美濃の国の斎藤道三と明智光継の娘で道三の正室・小見の方との間に生まれました。生年は1535年とされています。
1548年に父・斎藤道三と敵対していた織田信長の父・織田信秀の和睦が成立するとその証として織田信長と政略結婚します。
濃姫というのは、美濃の国の姫だからそう呼ばれていたようです。また、「美濃国諸旧記」によると鷺山城で育ったことから鷺山殿とも呼ばれていたようです。帰蝶という名前も美濃国諸旧記に出てきます。
信長の正室でありながら、信長との間に子供はなかったといいます。「勢州軍記」によると信長は1575年、信忠に家督を譲る際、側室・吉乃との息子・信忠を濃姫の養子にしたみたいです。
また、父・道三が討ち死にした後、斎藤氏の菩提寺である常在寺に道三の肖像を寄進したという話がありますが、この後は憶測しかなく事実はわかりません。
墓石なども不明で没年にもいくつかの説があります。その中でも有名なものを紹介しておきます。
本能寺の変で信長と共に自害した説
これは岐阜県岐阜市不動町に「濃姫遺髪塚」があることから出た説です。現地の説明板にはこのように書かれています。この墓は天正10年6月1日京都本能寺の変の折、夫君織田信長公と共に討死にされたお濃の方の墓で、討死された時、家臣の一人がお濃の方の遺髪を持って、この地迠逃れ来て埋葬したものと伝えらえております。
昭和20年7月にB29の空襲によって岐阜市の大半が灰燼となり墓石も焼失してしまいました。その後、30年を経た昭和50年にお濃の墓の碑文がみつかり、氏子有志皆様の御協力を得て再建されたお墓です。
昭和51年8月吉日
西野不動尊堂守記
天正10年・西暦1582年6月1日に「本能寺の変」があったのは恐らく間違いないと思われるので、この碑文に書かれた内容が正しければ、濃姫は信長と最後まで一緒にいたことになりますね。
信長の死後も生きていた説
京都に織田の菩提寺である大徳寺総見院がありますが、これは安土総見寺「泰巌相公縁会名簿」の記述に「養華院殿要津妙玄大姉 慶長17年壬子7月9日 信長公御台」とあることから、この信長公御台というのが濃姫のことであれば78歳くらいまで生きていたことになります。大徳寺には木造の織田信長坐像の他、織田信長をはじめとする一族の供養塔があり、信忠・信雄・徳姫・秀勝などと一緒に養華院の塔もあります。
長い間、誰の供養塔なのかわかりませんでしたが、これが濃姫ではないかと言われています。但し、これは総見寺の記述を基にした場合となり、他に残されている記述では、この養華院は信長の妾ということになっています。
この戒名からくみとれることを考えてみました。久しぶりに脳みそがパンクしそうですが、楽しいですね。ということでここからは私の推察です。
織田信長の戒名
織田信長の戒名を知っているでしょうか?「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」といいます。総見院ってどこかで聞いたことがありませんか?そうです信長の墓所があるのが大徳寺総見院です。総見院というのは大徳寺にある塔頭の名称です。大徳寺には養徳院もあります。塔頭というのは禅宗の寺院で祖師や門徒高僧の死後に弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に建てた塔や庵のことです。
安土桃山時代には大名が自分の教えを受ける僧の隠居所として寄進して小寺院と称する例も増え、これらも塔頭とされました。この場合の塔頭は寺院と住居という二つの側面を持つのです。
信長の総見院というのは、信長の戒名からつけられたものですが、もしかしたら「養華院」という塔頭がどこかにあるのかもしれないと思い調べてみました。
ありましたよ!養華院。すごい所にありました。なんと織田信長の総見院のすぐ隣です。
これは「平安京北郊における有栖川の流れ/片平博文」の中に、川上貢と竹貫元勝の研究などを基に作られた大徳寺の塔頭・寮舎の創建年代をまとめた図があるのですが、その中に総見院と龍翔寺の間に小さく養華院があります。
とすると…この養華院という塔頭は誰が施したものなのか…..「龍宝山大徳禅寺志」を検索してみたところ大徳寺の諸堂と塔頭を紹介しているページにたどり着きました。
その中の養華院に関する項目を読んでみると130世玉甫紹琮(ぎょくほしょうそう)が慶長年中(1596~1615)総見院の北隅に開創。
織田信長の寵妾帰蝶(濃姫:1535~1612:法号 養華院殿要津妙玄大姉)が施し、法号を院名とし、玉甫が瑚月璉首座を付す。寛政(1789~1801)初め廃され、祭祀は祥林軒に遷した。とあります。
玉甫紹琮とは総見院の開祖古渓宗陳が秀吉の怒りに触れ、九州に配流された後に引き継いだ人物でもあります。
やっぱり養華院は濃姫だったのね、という思いが強くなる一方で正室だったはずなのになぜ寵妾?という新たな疑問も….ちなみに寵妾の意味は寵愛する妾。愛妾。となっています。
更に妾の意味は?これを「めかけ」と読むと正妻の他に愛し養う女性とあります。
そして「しょう」と読むと…..めかけ。そばめ。一人称の人代名詞。女性が自分をへりくだって言う語。わらわ。とあります。
また「妾」の語源を調べると「わらわ」とも読み、女性が自らを謙遜していう語として近世の武家の女性が用いた。との記述があります。意味と同じような内容ですが、近世の武家の女性が用いたのです。
ここからは私の推測ですが、養華院が正室と書かれていたり、寵妾と書かれている背景に濃姫の武家の娘としての慎ましさが反映されているのではないかということです。
「三歩下がってついていく」ではないですが、主人信長に対しての尊敬と愛情から自分を謙遜して言っていたのでは?
だとしたら濃姫は、とても奥ゆかしく主人を立てることができる聡明な女性だったのでしょう。