織田信長の兄弟


織田信長には男兄弟が11人いたそうです。お市の方をはじめ姉妹もいたようですが、戦国時代の資料では女性の記述はあまり多くありません。

今回は織田信長の兄弟について詳しく解説していきます。

織田信広(のぶひろ)

兄:生年不詳~1574年10月13日

庶兄であったため家督の相続権は無いながらも、1548年第二次小豆坂の戦いでは先鋒を務め、敗走の際には安祥城の守備を任されました。

1549年、今川義元の配下・太原雪斎に二度に渡り攻められ捕らわれの身となりますが、後に徳川家康と人質交換となり織田家へ無事帰還。

その後、美濃で父・道三を討ち取った斎藤義龍と共に信長に対する謀叛を画策するが、事前に信長に計画がばれて失敗、その後も信長に対し小競り合いを繰りしますが降伏。

その後は一向一揆攻めに参加し、討死するまで信長に仕え、織田のまとめ役や交渉役を務めました。

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織田信行(のぶゆき)

弟:1536年~1557年11月22日

父も母も信長と同じ、信長の実弟。織田信勝とも呼ばれています。次期当主を期待されていたが、仮病を使って信長に呼び出され暗殺されました。

信長とは違って、母である土田御前に溺愛されていた弟でした。父・信秀の葬儀の際に香を投げつけたと言われる信長と違い、正装し礼儀正しい振る舞いであったと言われており信長とは対照的だったようです。

織田信包(のぶかね)

弟:1543年8月17日~1614年8月22日

母は土田御前と言われることもありますが不明です。

1568年、信長の命で北伊勢を支配していた長野氏の養子となり、伊勢国上野城を居城としていましたが、後に養子縁組は解消され、織田姓に戻り1569年「大河内城の戦い」で北畠氏に勝利した後は、伊勢国を任されるようになりました。

1582年の本能寺の変で信長と信長の嫡子信忠が死去した後は豊臣秀吉に従いました。また、1600年「関ヶ原の戦い」では西軍に属していたものの、東軍勝利後も家康のお咎めは受けず所領を安堵されました。

晩年は大阪城で豊臣秀頼の補佐にあたっていましたが、「大阪冬の陣」直前に大阪城内で吐血し急死。享年72歳と結構長生きしました。

織田信治(のぶはる)

弟:1544年~1570年10月19日

母は不明。尾張国野府城を与えられて信長に従い、1570年の宇佐山城の戦いでは朝倉・浅井の連合軍が宇佐山城に迫っていた際、京都から兵2000人を率いて救援に駆けつけますが、近江坂本で森可成・青地茂綱と共に戦死しました。享年27歳。

織田信時(のぶとき)

弟:生年不詳~1556年6月

母は不明。犬山城主である叔父の織田信康の養子になり、後に信長の重臣・佐久間信盛の調略により、守山城へと引き入れられ城主となりました。

この時に寝返った角田新五と坂井喜左衛門ですが、坂井の息子が信時の若衆となる異例の出世を果たすとそれを妬んだ角田により追い詰められ信時は切腹しています。


織田信与(のぶとも)

弟:生年不詳~1570年12月28日

信興(のぶおき)とも呼ばれています。生年・母ともに不明ですが、早いうちから兄・信長に従っており、1565年には滝川一益と共に出兵し勝利。現在の愛知県愛西市に古木江城を築き居城しました。

1570年には信長包囲網により、古木江城も包囲されましたが信長は比叡山で朝倉・浅井と対峙、桑名城にいた滝川一益も一向一揆勢に侵攻されたため、信与は援軍を得ることができず奮戦したが落城し、信与は自害。

共に戦った家臣80人余りが信与に殉じたということです。

織田秀孝(ひでたか)

弟:生年不詳~1555年7月24日

生年・母ともに不詳。享年15歳ほどであったと言われています。

秀孝は1555年7月24日、一人で馬に乗っていた際、ちょうど家臣を連れて川狩りに来ていた守山城主・織田信次の前を下馬せずに通り過ぎてしまったため、信次の家臣・洲賀才蔵によって誤って殺されました。

このことを信長は供回りもつけずに単騎で信次の領内を通行していた秀孝にも非があるとして咎めませんでしたが、信行は守山城下を焼き払うという報復行為を行いました。

織田家の家臣内では、親族の繋がりを尊重したと信行に次期当主としての期待を寄せるものもいたようです。

織田秀成(ひでなり)

弟:生年不詳~1574年10月13日

不明な点が多く、信長に従い長島一向一揆に参加したこと以外はわからないことが多い。

1574年7月に行われた伊勢長島攻めにおいて、信長の嫡男である信忠について従軍し、9月29日一揆勢の反撃を受けて討死したとされています。

織田信照(のぶてる)

弟:1546年~1610年12月3日

母は尾張熱田の商家の娘だと言われています。中根氏の養子となり、中根姓を名乗り、1581年の京都馬揃えでは御連枝衆として参加し、1582年以降は信長の次男・織田信雄の家臣となりました。

1584年「小牧・長久手の戦い」では、羽柴秀吉の軍に敗れて敗走しましたが、信長の弟であることから命は奪われませんでした。

一説によれば信照は家康の家臣本多忠勝に仕え、1610年12月3日に死去した忠勝に殉じて切腹し、同じく殉じた梶原忠と共に忠勝の左右に埋葬されたそうです。


織田長益(ながます)

弟:1547年~1621年1月24日

茶人としても有名で有楽斎如庵と号していました。

1574年、大草城を改修し信長の長男・信忠の下、甲州征伐などに参加、1582年の本能寺の変では信忠と共に二条御所にいましたが脱出し、信雄に仕えました。

「関ヶ原の戦い」では東軍に属し、「大阪冬の陣」の際は大阪城にて穏健派として豊臣家を支える役割を担っていましたが、「大阪夏の陣」の前に城内にいても無意味として豊臣家から離れ、京都にて趣味の茶道に専念しました。1621年12月13日75歳で死去。

織田長利(ながとし)

弟:生年不詳~1582年6月2日

信長の末弟で兄・信長の命により、信長の長男・信忠に仕え、1574年の伊勢長島一向一揆討伐に参加、1581年の京都御馬揃えにも騎馬10騎を従えて参加しました。

1582年「本能寺の変」の際には、信忠と共に二条城で明智軍に攻められ戦死しました。

いかがでしたか?そういう時代だったとはいえやはり長生きした人は少ないですね。それでも時代の流れや周囲の思惑の中で精一杯自分の人生を生きていたのでしょうね。

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