織田信長の子孫


群雄割拠に時代に生きて、天下統一を目指す中で戦国の世に散っていった織田信長。彼には彼を支えた妻たちと彼女たちが生んだ子供が多くいました。

信長亡き後、彼の遺伝子を受け継ぐ子供たちがどんな運命をたどったのか……今回は信長が自害した本能寺の変の後、織田信長の子供たちとその子孫について詳しく解説していきます。

織田信長には血縁関係に不明なものも含めて男女合わせて20人以上の子供がいますが、今回は男子のみに絞っています。

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嫡男・織田信忠(織田弾正忠家当主)

織田信長の嫡男として生まれた信忠は、生まれながらにして信長の家督を継ぐことが決まっていました。1576年11月には信長から織田家の家督を生前相続した。

本能寺の変の際には信長と共に備中高松城攻めをしている羽柴秀吉の援軍に向かうべく京都の妙覚寺に滞在しており、明智光秀による謀反を知ると本能寺へ向かいますが、途中信長自害の報を受け二条御所に移動。

誠仁親王を脱出させ、わずかな兵と共に籠城し、善戦を見せるも明智軍の伊勢貞興が攻め込むと自害しました。享年26歳。

次男・織田信雄(信雄流織田家初代当主)

1558年に生駒屋敷にて生まれました。1569年に父・信長と北畠家の和睦条件として北畠具房の養嗣子になり、具房の妹・雪姫と結婚。1572年、元服し北畠家の家督を相続。

本能寺の変の折には、近江国甲賀郡まで進軍しましたが戦わないまま撤退。兄・信忠亡き後、清州会議において織田家の後継者になろうとするも、当主候補にされることはありませんでした。

1583年、秀吉と信孝・柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」では秀吉方につき、信孝を岐阜城に攻めて降伏させ、信孝は尾張に送られ自害。

三法師の後見人として安土城へ入城したが、秀吉に退去させられ、妹・徳姫の縁をたどり徳川家康に接近。

その後もことあるごとに徳川と豊臣の間を行き来するも、後に徳川家康から大名に取り立てられているため、大阪城内での情報を流す間者であったと推測されます。

1630年4月30日京都北野邸で死去。享年73歳。

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三男・織田信孝(信孝流神戸家初代)

1558年、尾張衆の岡本良勝の屋敷で生まれたとされています。1568年、父・信長が伊勢国を平定した際、降伏した神戸城城主・神戸具盛の養子となり、信長によって養父・具盛が隠居させられた後の1572年に神戸市の家督を相続します。

相続後は神戸検地と呼ばれる検地を行い、城下には楽市楽座をしき、領地経営に力を注ぎました。そのため、神戸は伊勢神宮参拝の街道宿場町として大いに栄えたということです。

織田信長の子孫1582年5月から四国攻めの準備をし、本能寺の変の際は堺にて渡海の準備をしていたそうです。

本能寺の変が勃発した際は逃亡兵が後を絶たず、積極的な行動には出られなかったため、明智光秀の娘婿で四国攻めの副将を命じられていた従兄弟の津田信澄を殺害しただけでした。

ちなみに本能寺の変に信澄が加担していたという事実は残っていません。

「山崎の戦い」では名目上の総大将になり、明智光秀を撃破、後の清州会議では信忠の後を継いだ三法師の後見人になり、兄・信忠の領地・美濃国を与えられました。

その後、秀吉と対立していた柴田勝家に接近し、勝家とお市の方の婚儀を仲介するも12月秀吉が信孝に向けて挙兵し、岐阜城を囲まれてしまいます。信孝は降伏せざるを得なくなり、母と娘を人質に取られ、三法師を秀吉に引き渡しました。

1583年「賤ヶ岳の戦い」が起きると信孝は再度挙兵。しかし、兄・信雄に岐阜城を囲まれ、柴田勝家が北ノ庄城で自害すると岐阜城を開城し降伏。信孝は尾張国の大御堂時で自害させられました。享年26歳。

信孝の側室・小妻氏の子である織田信豊の次男・織田信国の子孫だという川上家が現存しているそうです。

徳川の旗本となった織田氏の一族には、信豊を家祖としている家が多くありますが、これらの子孫や末裔が本当に信孝の血筋であるのかは不明です。

四男・羽柴秀勝

織田信長の四男として1568年に生まれました。1576年10月、側室との間に生まれた石松丸秀勝を亡くした秀吉が、織田家に主家との養子縁組を願い出たため、四男の於次丸秀勝は羽柴秀吉の後継者になるため養子になりました。

残虐非道のイメージがある織田信長ですが、信長は血族を優遇していたことから、秀吉が自分の地位を擁護するためだったとも考えられています。

1582年3月8日、信長の命で秀吉が中国征伐に出征し、備中を攻める際、それに従って17日の備前児島・常山城攻めで初陣を果たします。4月からの高松城攻めにも参加します。

6月2日の本能寺の変で父・信長が自害した後、秀吉の中国大返しに同行。信長の四男として「山崎の戦い」に参加、異母兄・信孝と共に弔い合戦の旗印となりました。

信長の後継者を決める清州会議では、秀吉が信長の孫である三法師を推したため、後継者候補にはなりませんでした。織田領の再分配により、於次丸秀勝は丹波亀山城の城主となりました。

1583年「賤ヶ岳の戦い」にも参加し、1585年には正三位・権中納言にまでなりますが病に倒れ病床につきます。1585年12月10日母・養観院に看取られながら丹波亀山城で死去。享年18歳でした。

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五男・織田勝長(勝長流織田氏)

勝長は岩村城主遠山景任の未亡人で織田信長の叔母である「おつやの方」の養子になりました。それは景任が嗣子がないまま死去してしまい、遠山氏を継がせるためにおつやの方が信長に頼み込んだのです。

しかし、信長は乗り気ではなく、勝長も養子として遠山家の家督を継いだものの幼かったため、実権はおつやの方が握っていました。

1572年11月、甲斐の武田信玄が美濃国へ侵攻してきた際、武田の家臣・秋山虎繁に攻められ岩村城は降伏、武田の居城となってしまいます。

おつやの方は岩村城代となった虎繁を夫とし、武田方との和議を結びました。その際に勝長は甲斐国へ人質として送られ、信玄の養子になります。

これに激怒した信長は後年岩村城を奪回。秋山虎繁とおつやの方を逆さ磔にしています。1581年11月に武田勝頼によって送還され同年元服。尾張国犬山城主となります。

その後は兄・信忠の与力として活躍しますが、本能寺の変で信忠と共に明智光秀の軍勢に攻め込まれ、二条御所にて奮戦するも討死。

勝長の長男・勝良は織田信雄に仕え、のちに加賀の前田家に仕えました。その子孫もそのまま金沢藩に仕えたということです。

六男・織田信秀

信秀は1571年頃生まれました。父・信長から美濃国揖斐地方に所領を与えられていたそうです。1582年本能寺の変が起きた時は、美濃の仏照寺に落ちて難を逃れました。

清州会議後、近江国栗太郡へと所領を移され、1583年に元服し名を信秀と名乗るようになります。秀吉が権力を握ると稲葉良通の口添えで秀吉の家臣となり1585年「羽柴姓」が与えられます。

その後、豊臣姓も与えられています。キリスト教徒で1587年の九州征伐の際、ロザリオをつけて出陣したそうです。晩年は剃髪し浦坊を号しました。

信秀の長男・重治は理由不明ですが所領を相続していません。次男・虎法師は比叡山に入り、僧となっていましたが修業中に賊に襲われ殺害されています。

七男・織田信高(信高流高家織田氏当主)

信高は1576年織田信長の七男として生まれました。1582年の本能寺の変で信長が自害すると、氏家行広に預けられ養育されます。1585年兄・織田信秀が羽柴姓を与えられた際に仲介してもらい豊臣秀吉に仕えました。

1591年には自らも羽柴姓を与えられ、羽柴藤十郎と名乗りました。1603年12月12日に死去。享年28歳でした。

信高の嫡男・高重は幕臣として1616年に近江・安房に2000石を与えられています。高重の孫の信門は高家となり、明治維新まで高家旗本として存続していました。

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八男・織田信吉(水戸津田家先祖)

信吉は1573年に織田信長と側室・お鍋の方の間に生まれました。七男の信高の方が3年遅く生まれていますが、織田家中の席次が信高の方が上であるため、便宜上では信高が兄とされています。

本能寺の変後、母・お鍋の方(興雲院)とともに小倉にて蟄居していましたが、1583年に羽柴秀吉により召し出され、羽柴姓と武蔵守の官、近江国に2000石の所領を与えられます。

1600年の「関ヶ原の戦い」では西軍につき、弟の長次と共に平塚為広勢に加わりました。本戦では同陣の諸将が討ち死にする中、脱出に成功。

戦後は豊臣家を頼り大阪城下で暮らしました。晩年は剃髪し京都で暮らしていましたが1615年死去。享年43歳でした。

信吉の息子・信之は僧になり、娘は紀州徳川家の侍女になりました。信之には4人の息子がいましたが、その内の一人は出家し、二人は京極高国の家臣になりました。子孫は水戸へと移住し津田姓を名乗っています。

九男・織田信貞(高家織田氏当主)

信貞は1574年に生まれたとされています。1582年父・信長が本能寺の変で死去したため、埴原長久に養育されたそうです。埴原は信長の死後、次男の信雄に仕えていました。

1600年の「関ヶ原の戦い」では西軍を支持し、伏見城攻めに参加しました。1614年の「大阪の陣」の際は徳川方として従軍、功績をあげています。1624年6月6日死去。享年51歳。

信貞の長男・信次は病弱で家督を継ぐことができなかったため、次男の貞置が家督を相続。信次の子貞幹は、貞置の養子となり、尾張藩の家臣として仕えました。

貞置の子孫は徳川氏に高家旗本、分家は旗本として仕えたそうです。

十男・織田信好

1582年の本能寺の変が起きた時、信好はまだ幼かったため、秀吉に引き取られ家臣になりました。茶人だったそうです。1609年7月14日死去。

十一男・織田長次

生年は不詳で1574年~1582年の間だと言われています。謎が多く1582年本能寺の変で父・信長が自害した後は羽柴秀吉の馬廻になったそうですが、豊臣時代のその後は不明です。

1600年の「関ヶ原の戦い」では西軍を支持し、信長の八男で兄・信吉とともに平塚為広勢に加わり戦いました。しかし、9月15日の本戦で所属していた大谷軍が壊滅し、為広らとともに戦死しています。

いかがでしょうか?戦国武将・織田信長の子供たちは、その後の世の中でもそれぞれの道を生きていきました。関ヶ原の戦いでは東軍・西軍に兄弟も分かれてしまうのですが、それでもきっと自分が信じた道を模索し進んだ結果なのでしょう。

豊臣政権下で生き残り、徳川の世で旗本として働き、明治維新や世界大戦を乗り切り、この現代でもきっと織田信長の血を引く人は沢山生きていることでしょう。


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