織田信長の父


信長の父・織田信秀は凄い人

天下統一を後一歩という所まで成し遂げていながら、本能寺の変に倒れた織田信長。戦術に優れ、領地を拡大し戦国の時代に名を知らしめた人物ですが、実は父もすごい方でした。

名前くらいは聞いたことがあるかもしれませんが、メインはいつも息子に奪われてしまいがちな信長の勢力の基盤を作った父・織田信秀について詳しく解説していきます。

織田信長の父・織田信秀は、尾張の守護代の一族で守護代である織田大和守家の庶流(本家から分かれた一族)で弾正忠を称する家を継いでいました。

室町幕府管領斯波氏の家臣で、尾張下四郡の守護代である織田達勝に仕える一武将でしかありませんでした。

家督は父・信定が存命中の1526年~1527年頃に譲られ、家督相続から数年後の1532年には主家である織田達勝と信秀と同じ清州三奉行の一人である織田藤左衛門と争いました。

この争いは講和によって収束しましたが、信秀は自らの威勢を示すために1533年には連日蹴鞠会を実施し、賓客や見物人など多くの人が集まりました。

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信長が生まれる

1534年には織田信長が誕生し、1538年には今川氏豊が居城としていた那古野城を奪い取り、居を移すとさらに勢力を拡大して、それに伴い現在の名古屋市中区あたりに古渡城を築城し、経済的な基盤として熱田を支配しました。

もう少し後の時代の戦国大名ではよくあることですが、この時代の戦国大名は拠点となる城を動かさないことが多く、信秀のように拠点となる城を移していくことは非常に珍しいことでした。

1548年には末森城を築城して居を移すと朝廷への献金し、さらには室町幕府に参じて時の将軍・足利義輝にも拝謁するなどしました。

信秀が家督を譲られて間もなくの1529年には徳川家康の祖父にあたる三河国安祥城の城主・松平清康が尾張へと侵入を果たし、信秀の支配下の城を攻め取りました。

しかし、1535年に守山城まで侵攻してきた時、清康が家臣の阿部正豊に暗殺され(守山崩れ)混乱する松平軍の隙をついて三河国へと侵攻。1540年には松平氏の拠点であった安祥城を攻略、長男の信広に城を任せました。

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斉藤道三との戦い

1542年には美濃の守護時頼芸とその子・頼次が斎藤道三によって尾張へと追放されてくると頼芸を支援して越前国で土岐頼純を保護していた朝倉孝景と手を組み、斎藤道三と一戦を交えます。

このように着実に勢力を伸ばしていた信秀でしたが、自身の主家である織田大和守家への臣従関係は保っていました。しかし、その地位や権威は主家のみならず、守護の斯波氏よりも上回っていました。

そのため、尾張国内の他の奉行や犬山城の織田信清とは折り合いが悪く、何度も反目し合っていました。その後、1544年には美濃の斎藤道三の居城・稲葉山城まで攻め込みますが大敗。

この頃から、信秀の勢いにも陰りが見え始めます。道三が大垣城奪還に動くと信秀は救援のために出陣、その隙をついて織田達勝の跡を継いだ織田信友が古渡城を攻撃、織田大和守家と争うことになりますが翌年には和解しています。

しかし、「第二次小豆坂の戦い」で今川方の武将・太原雪斎に敗北。さらに「第三次安城合戦」では安祥城を奪われ、城にいた信広は今川氏に捕縛されてしまいます。

その信広と人質としていた松平竹千代を交換して信広を助けたことで西三河での勢力を失いました。その後、今川氏や斎藤氏に押され、主家ともいざこざを抱え苦しい立場へと押されていきます。

そのため、信秀は信長と道三の娘・濃姫との婚姻を条件に斎藤氏と和睦を結びましたが、ちょうどその頃から信秀は病により臥せることが多くなりました。

次々と信秀の勢力が削られていく中、1552年に末森城内にて死去。死因ははっきりとはしていませんが、心筋梗塞や脳卒中などが原因だと考えられています。

葬儀は現在の名古屋市中区大須にある萬松寺で、僧侶300人を参集させた壮大な葬儀だったようです。

この葬儀で信長の弟・信勝が正装姿で礼にかなった作法であったのに対して、信長は父の霊前で抹香を投げつけるなど不作法でしたが、皆が口々に信長をバカにする中、唯一人の僧は信長に対して「国持ちの大名になる方だ」といったといいます。

信秀の墓所は葬儀が行われた萬松寺の他、織田信行が父・信秀の菩提を弔うために建立した桃巌寺にもあります。


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