織田信長と9人の妻
延暦寺を焼き討ちにしたり、神仏に対する信仰心が薄く、残虐非道なことでもやってのける時代の革命児織田信長。
その陰で敦盛を好み、茶の湯を愛し、自ら相撲大会を開催してみたりと意外にもお茶目な部分があるのもまた事実。そんな戦国の世に生きた織田信長を支えた妻たちについて詳しく解説します。
戦国時代は一夫多妻制
戦国武将の多くは、正妻の他に側室と呼ばれる公認の愛人がいるのが普通でした。当時は当然のことながら、今のように医療技術が発達しているわけもなく女性が子供を妊娠し、無事出産するのは今以上に大変なことだったのです。そのため、地位の高い大名たちは自分の子孫を残すために正室の他に側室も抱えていることが多かったのです。この正室・側室・継室の違いはなんでしょうか?簡単にまとめてみました。
・正室とは……正妻のことです。正室はこの時代も一人しかいません。
・側室とは……正妻以外の妻というか子孫を残すための公認の妾のことです。
・継室とは……正妻と何らかの形で離縁したり、正室が死去してしまった後に迎えた後妻のことです。
簡単ですね。極稀に正室しかいなかったという人もいますが、大体が正室と側室がいました。そしてほとんどが家同士の同盟関係や重臣の娘であったり、政治のために利用されることが多かったようです。
織田信長を支えた9人の妻たち
織田信長には正室・側室含めて9人の妻がいました。それでは一人ひとり見てみましょう。濃姫(帰蝶) 正室
織田信長の正室は美濃国の蝮・斎藤道三の娘・濃姫でした。1548年に信長の父・信秀と敵対していた美濃国の斎藤道三との和睦が成立し、その証として政略結婚が行われました。信長と濃姫の間には子供がなかったようで、織田信忠に家督を相続する際、信忠を濃姫の養子にしたという説もあります。
この時代の女性にはよくあることですが、いくら身分の高い人であっても後世に伝わるような記述が残っていることが少ないため、信長と結婚した後のことはほとんど謎に包まれています。
私が調べた範囲では、現在は総見院に「養華院殿要津妙玄大姉」という法名で埋葬されている可能性が高いです。
根拠としては今は廃寺となっていますが、以前は総見院のすぐ横に養華院という塔頭が存在したこと、それを施したのが信長の寵妾・帰蝶で法号を院号としたことが「龍宝山大徳禅寺志」に記載されているからです。
濃姫が生きている時、父・斎藤道三の菩提を弔うために常在寺に道三の肖像画を寄進したと言われています
養華院が濃姫であったとして享年78歳になります。
生駒吉乃 側室
信長の側室で信忠・信雄・徳姫の実母です。吉乃という名前は実名ではないそうですが、馬借(馬を利用し荷物を運搬する戦国時代の輸送業者)生駒家宗の娘です。1556年夫が戦死したため、実家に戻っていましたが、信長に見初められ側室となりました。信長最愛の女性とも言われています。しかし、信忠・信雄・徳姫を産んだものの産後の肥立ちが悪く死去しています。
お鍋の方 側室
七男の信高と八男の信吉、娘・於振の母です。近江の豪族・高畑源十郎の娘と言われています。しかし、お鍋の方宛の書状は「小倉」や「小椋」と宛名が書かれており、俗説でははじめ近江国・高野城主である小倉実房に嫁いで男子を二人もうけたが実房の戦死後、織田信長の側室となったと言われています。
1582年の本能寺の変勃発後は、豊臣秀吉の庇護下に置かれ、正室・ねねに仕え、側近の筆頭であったようです。1600年の関ヶ原の戦い後は、淀殿から50石の知行を与えられ京都で晩年を過ごしました。
また、崇福寺に信長の遺品を届けて埋葬したのもこのお鍋の方だと言われています。
坂氏 側室
三男の信孝の母ですが出自は不明です。いつ信長の側室になったのかもわかっていません。信孝を出産後の届け出が遅かったためか、若しくは坂氏が身分の低い家の生まれだったためか、次男とされている信雄より信孝の方が、20日ほど早く生まれていたようです。それで三男という扱いになったと言われています。
1568年、息子の信孝が伊勢の神戸具盛の養子になると、同族と思われる坂仙斎とともに信孝に同道しています。1582年本能寺の変が起こり信長が自害すると、岐阜城の城主となった信孝に従い美濃へと移り住みました。
信孝は柴田勝家と組んで豊臣秀吉と敵対し、12月に岐阜城を秀吉に攻められ降伏。その際に信孝の娘と共に人質となりましたが、1583年に信孝と勝家が再挙兵すると秀吉によって孫娘とともに磔(はりつけ)にされました。
養観院 側室
秀吉の養子となった羽柴秀勝の母。信長の次女・冬姫も養観院の娘であるという説もありますが定かではありません。秀勝が丹波亀山城城主になると共に亀山城へと移りました。しかし、秀勝は病弱だったため、1585年12月死去。その後、丹波から京都へ出家して信長や秀勝たちの菩提を弔いました。
土方氏 側室
九男・信定の母。織田信長の父・信秀の代からの家臣である土方信治の孫娘と言われています。土方氏の父・雄久は、信長と信雄の二代に仕え、後に豊臣秀吉の家臣として仕え、1万石の所領を与えられた人物です。慈徳院 側室
織田信忠の乳母で三の丸殿の母です。信長の嫡男・信忠の乳母を務めたことから信長の目にとまり側室となりました。信長の寵愛を受け、後に豊臣秀吉の側室となる三の丸殿を出産。本能寺の変の後、信忠の菩提を弔うために妙心寺内に塔頭・大雲院を建立。一説に慈徳院の兄は僧門にあったとされ、兄が大雲院の開山になったと言われています。
原田直子 側室
織田家の家臣・塙直政の妹で織田信政の母とされている人物。1554年那古野城で信政を出産したとされていますが、信政はその存在が疑問視されています。その後、1566年に古渡城に移り住んだと言われていますが、古渡城は1548年に廃城となっているため、その後の消息は分かりません。
いかがでしたか?織田信長を支えた妻たちです。この時代どうしても女性に関する資料は少なく正確なことはわかりません。
しかし、天下を取ろうという戦国武将の傍にいたのですから肝の座った女性たちだったのではないでしょうか。
武将の妻だというだけで人質に取られたり、殺されてしまうことが当たり前だった時代。それでも妻として母として女として生きた彼女たちはきっと素敵な女性だったのでしょうね。