織田信長と武田信玄


織田信長が生まれる10年程前に偉大なる戦国武将がこの世に誕生しています。それは「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄です。

「風林火山」の旗印と言えば誰しも一度くらいは目にしたことがあると思いますが、「三方ヶ原の戦い」で織田方の徳川家康を圧倒的な強さで倒し、徳川幕府が成立したのちは「家康公を苦しめ、人間的に成長させた武神」として高く評価されたようです。

そんな武田信玄と織田信長はどういった関係だったのでしょうか?今回は甲斐の虎・武田信玄と織田信長の関係について詳しく解説します。

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武田信玄はどのような人?

武田信玄は1521年に甲斐の国の守護・武田信虎の嫡男として生まれました。父である信虎の時代から徐々に戦国大名と化し、国内統一を達成すると信玄もその体制を継承し、隣国の信濃へと侵攻していきます。

武田信玄越後の上杉謙信とは川中島で4度刃を交えましたが、その過程で信濃をほぼ領国化していきます。

武田信玄の領地である甲斐の国は、北に上杉謙信・東には相模の北条氏康、そして西には織田信長といういずれも強大な軍事力をもった大国に囲まれていました。

戦に強かったことは有名ですが、信玄はただ強いだけでなく外交面での駆け引きや国を治める統治力も高く、家臣からは絶大な信頼を受ける人物だったようです。

四方を山に囲まれているため、水源となる川は上質なタンパク源を育む場所でもありました。

しかし、笛吹川も釜無川も度々氾濫していたため、信玄は信玄堤を建設し、川の流れを変えて氾濫を抑えるとともに農業用水として活用できるように整備しました。

多くの有能な家臣がいたにも関わらず、大国に囲まれているが故に軽々と兵を動かすことはしませんでした。信玄が上洛を狙って動き始めたのは、亡くなる前年の1572年です。

そんな信玄は幼少期から長禅寺の禅僧・岐秀元伯から禅や兵法を学び、学問が好きな文学青年へ成長します。信玄が孫子を好んで読んでいたのは知る人も多いと思いますが、風林火山の旗は孫子に由来しています。


織田信長と武田信玄

織田信長と武田信玄は、1565年には信長の姪にあたる遠山直廉の娘を信長が養女として、武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んでいます。この頃から信長と信玄の間には外交関係があったと推測されています。

武田家,家紋しかし、その女性は後の武田信勝を出産した直後に死去しますが、その後、信長の嫡男である信忠と信玄の娘・松姫の婚約が成立しています。

信玄は織田の同盟国である徳川氏とは、三河・遠江をめぐり対立していましたが、信長とは友好関係が保たれています。

信玄は5回にわたり(5度目はにらみ合いで終わった)越後の龍・上杉謙信と川中島の戦いを繰り広げていましたが、1560年桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討ち取られると1565年頃から武田と今川の関係は悪化していきます。

そして1568年信玄は、駿河今川氏の領国へ侵攻を開始しました。信玄が駿河へ侵攻したことにより相模の北条氏と武田の甲相同盟は破綻、上杉に対する共闘体制も解消されます。

北条氏は上杉と同盟し武田の領国へ圧力を加えますが、信玄は将軍足利義昭を要する織田信長と友好関係を築きます。

1569年には織田信長は、足利義昭と共に武田氏と上杉氏の和睦を仲介しています。

ここまで特に大きな争いもなく織田信長と武田信玄は友好関係を保っています。この頃、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たしますが、信長と義昭は徐々に対立関係となっていきます。

義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に向けて信長を討伐する旨の御内書を出します。1570年にはずっと友好関係にあったはずの信玄は、信長の義弟・浅井長政らと共に信長包囲網を形成します。


強すぎる武田信玄

その後の信玄は1571年2月信長の同盟相手である徳川家康を討つため、大規模な三河侵攻。わずか3ヶ月ほどで小山城・足助城・田峯城・野田城・二連木城を攻め落とします。

武田信玄ややはり武田は強かったんですね。しかし、信玄が体調を崩したため、甲斐へと引き返していきます。この時に信玄が元気だったら徳川幕府は成立していなかったかもしれません…..

同年9月に信長が朝倉・浅井に味方した延暦寺を焼き討ちにしました。

寺社の権利を認め、代わりに義務を合わせるという政策をとっていた信玄は、信長を「天魔の変化」と非難。延暦寺を甲斐に移して再興させようとしていた程の仏法の庇護者でした。

これまで友好的な関係を保っていた織田信長と武田信玄ですが、やはり第六天魔王と仏法の庇護者では、その関係を保つのは難しかったのかもしれません。

1572年に信玄は将軍である足利義昭の呼びかけに応じ、信長討伐に向けて動き出します。信玄は本拠地である甲府を出発し、諏訪から伊那へ抜け遠江へと向かいました。

その後、信玄の本隊は朝倉・浅井の両者に信長への対抗を要請。11月には信長の叔母である「おつや」の方がおさめる岩村城が武田方へ寝返り、信長は信玄とついに義絶(ぎぜつ※関係を断つこと)。

この時、信長は浅井・朝倉や石山本願寺と対峙していたため、徳川家康をはじめとする約3000人しか兵を送ることはできませんでした。

武田信玄は一言坂で徳川家康を敗退させます。その後、浜松城に籠城する構えを見せた家康の軍と三方ヶ原で再度まみえますが、家康は圧倒的な強さの武田軍を前に敗走したと言われています。

徳川家康のしかみ像の肖像画はこの時のものです。

しかし、この時信玄は浅井の援軍として来ていた朝倉の軍が撤退をしていることを知り、再度出陣を求める文書を送っていますが、朝倉が応じることはありませんでした。

年が明けて1573年に信玄は野田城を攻め落としますが、この直後から度々喀血するようになり、体調は悪化していきます。そのため勇猛果敢に攻め込んでいた武田軍は、進撃を止めてしまいます。

体調が優れない信玄は長篠城で療養していましたが、4月に軍を甲斐へと引き返す途中、三河街道上で53年の人生に幕を下ろしました。

1574年に家督を継いだ甲斐の武田勝頼が東美濃に進撃。迎撃しようとしていた信長は、信長の軍が到着する前に明知城が落城したことを知り、武田軍との衝突を避けるため岐阜に撤退します。

こうして軽く歴史の流れを追うと、武田信玄と織田信長は直接対決したことがないんですね。

ルイス・フロイスの日本史に武田信玄は「織田信長がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の一人」と書かれており、武田軍が長篠の戦いで敗戦した後も信長が支配する地域においては上杉軍と並びその強さは天下一と言われていたそうです。

推測ですが周りから恐れられていた信長のイメージが強いですが、信玄を恐れ、友好的な関係を保とうとしていたのかと思うと、何だか織田信長に親近感が湧いてきます。

信長もその時その時を必死に生き抜こうとする一人の人間だったことが見えてきますね。

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