織田信長と豊臣秀吉
尾張国守護代に連なる織田弾正家に正室の子として誕生した信長とは対照的に、尾張国愛知郡中村郷で足軽の子という低い身分に生まれたのが秀吉。
信長の下で手柄を挙げ、地位を手に入れ、本能寺の変後には天下人にまでなりました。
二人とも戦国時代の三英傑に名を連ねていますが、あまりにも生まれも育ちも違う二人になります。きっと考え方や国に対する政策なども違っていたのでしょう。
今回は政治・政策の観点から信長と秀吉を見てみましょう。
織田信長の政治・政策
- 「座」を廃止し誰でも自由に商売をすることが出来るようにした。
- 曖昧だった貨幣の価値を明確にして円滑に流通する様にした。
- 数多くあった関所を廃止し、人や物が行き来しやすいように道路も整備した。
- 大津や草津、堺といった物流の拠点となる場所を支配下においた。
- 身分や人種に関係なく優秀な人材は積極的に登用した。
- 拡大した領地に家臣を配置し、隣国の警戒にあたらせた。
また、南蛮渡来の珍しい物も手に入れ、軍事力も安定して大好きな目新しい物まで手に入るという一石二鳥だったようです。
また、一向一揆鎮圧や延暦寺焼き討ちなどから仏教を嫌っていたと思われがちな信長ですが、一方では寺院の保護もしています。
当時、僧の中には酒や女に溺れ、横暴の限りを尽くしていたものも多くいたようで信長はそのようなことを嫌っていたようです。
破天荒な性格の信長ですが、必要ない物は廃止、求められているから制度化するといった非常に合理的な考えの下、政治を行っていたことがわかりますね。
豊臣秀吉の政治・政策
- 従来の荘園制度を廃止、全国の農地の収穫高を調べさせて課税制度を見直し、その土地で耕作する農民も決められた(太閤検地)。
- 農民の一揆を抑えるために農民たちが持っていた武具を没収した(刀狩)。
- 武士が町人や商人、百姓など他の身分になることを禁じ、また百姓が職人や商人などになることを禁止。
- 知行改めを行い下剋上抑止。
- 各国内にある小さな城や砦を壊してしまうことで一揆や反乱の拠点とならないようにした(一国一城)。
- 国替えを行い、国を治める大名と農民・商人等が強く結びつくことを防止。
- 明を征服するために二度に渡って朝鮮半島へ軍勢を送る→2度目の出兵の時に秀吉が病死。その後、軍は引き上げる。
- 徳川家康、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝、前田利家による最高機関「五大老」の合議制で政治を整え、さらに五大老からの命令を受けて実際に行政を行う前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家による「五奉行」を編成。
- 伴天連追放令を出して、キリスト教の宣教師たちに国外に出ることを命令、ただし貿易は続けた。
現在は仕事を自由に選択でき、国際化社会と呼ばれるほど様々な国の人と交流し、海外で活躍する人も増えてきました。
また、貨幣の価値は明確にされ、土地にもきちんと所有者がおり、税もおそらく適切に徴収されています。
そう考えると現在の政治の元は二人の政策の「良いとこ取り」なのかもしれませんね。