織田信長と本能寺
本能寺とは、織田信長が明智光秀の謀反により、自害した本能寺の変の舞台となった寺。今はその場所には片隅に碑が建っているだけで、当時の面影は一切ありません。
科学が発達し様々なことが新しく生み出され、そして過去のことも科学のメスが入れられる時代になりました。しかし、今も尚不可解なことが多いとされる信長の最期。
今回は悲劇の舞台となった本能寺にスポットを当てて、解説していきます。
何度も再建される本能寺
現在の所在地は、「京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522」ですが、本能寺の変が起きた時は中京区蛸薬師通小川通西南角にありました。本能寺は元々「本応寺」という寺号で1415年に日隆によって創建されました。日隆は1402年今の妙顕寺にあたる妙本寺で修学していましたが、1410年に法華経の解釈の違いから寺を後にします。
その後、油小路高辻と五条坊門の間の地に1415年に本能寺の基となる本応寺を建立します。
1418年に法華経を巡って対立していた妙本寺の「月明上人の命」で、妙本寺の教徒たちによって本応寺は破却されます。建立からわずか3年でした。
しかし、その後も本能寺は何度も再建を繰り返します。
1429年:小袖屋宗句の寄進で現在の西陣あたりに本応寺を再建
1433年:如意王丸を願主に六角大宮に本能寺を建立
如意王丸?いきなり広大な土地を寄進できる人物ということからお金持ちで身分が高そうなのはわかりますが、一体誰なんでしょう。
足利氏の中に如意丸という人物がいますが年代が合いませんものね。気になります。
しかし、本能寺は足利氏の保護も受けていますし、何か関係があるのかもしれません。
1536年:天文法乱にて延暦寺の僧徒により焼き討ちされる
焼失した跡地には善想寺というお寺が建っています。元々は藤原頼忠の邸宅があった場所で善想寺の開基・想阿善悦上人は藤原家の子孫にあたるそうです。ということは如意王丸は藤原家なのでしょうか?
1545年:第12代貫主・日承聖人が四条西洞院に建立
1582年:本能寺の変が勃発し焼失 織田信長自害
広大な寺地に再建され大伽藍が造営されました。さらに子院も30余りありました。
開山以来山号を持たず尼崎の本興寺と両山一貫主制でしたが、その後、布教活動により、畿内、北陸、瀬戸内、種子島まで広まり、本能寺を中心とした本門流教団が成立しました。
織田信長といえば鉄砲を使った三段撃ちで有名ですよね。本能寺は早くから種子島に布教していました。そして種子島といえば鉄砲伝来。
本能寺は鉄砲や火薬を入手したい大名達との関係が深かったようです。
神も仏も関係ないような織田信長ですが、日承上人に帰依し、本能寺を上洛の際の宿所としていました。
明智光秀による謀反が起きた際、織田信長は自ら本能寺に火を放ったそうです。
1592年:第14代貫主・日衍聖人により再建され、秀吉の命で現在の地に移転
1788年:天明の大火にて焼失
1840年:第77代貫主・日恩聖人により再建
1864年:蛤御門の変により焼失
1928年:現在の本堂再建
調査される本能寺
このように本能寺は何度も再建を繰り返してきた寺院です。それも「焼失」することが多かったようですね。そのため現在の本能寺は「能」の字の作りが「ヒヒ」ではなく「去」になっており「ヒが去る」という意味で字を変えているそうです。また、1992年の本能寺の変当時に本能寺があった場所に建っていた京都市本能小学校が廃校になり、発掘調査が行われました。
それにより、信長が宿所として利用していた当時の遺構が発見されています。
2007年にマンション建設のために遺構調査がなされましたが、本能寺の変で焼け落ちたと推測される瓦が見つかっています。
また、本能寺には多くの鉄砲や火薬が置いてあったとも言われ、織田信長が本能寺に火を放った時に爆発が起きたのかもしれません。
実際に焼けた跡がない瓦も発掘調査で見つかっているので、本能寺は全焼したのではなく、半焼だったという説もあります。
もしも、本能寺で爆発が起こったのだとすれば、織田信長の遺体が見つからなかったことにも説明が付きますね。
しかし、残念なことにそのあたりの詳細はまだ分かっておらず、これから解明されていくことでしょう。願わくば、私がこの世にいる間に真実を知りたいものです。