織田信長の天下統一


織田信長に対してどのような印象をお持ちでしょうか?

自分の敵には容赦ない、宗教にとらわれることもなく、自分が有能な人材であると思えば海外からきた人でも、身分が低くても関係なく家臣として登用し、新しいものは積極的に取り入れる……大うつけと呼ばれても歌舞伎者と言われても意に介さず、そんな破天荒なイメージがありますよね。

織田信長の天下統一は叶いませんでしたが、確かに彼は天下統一に向かって動いていたのです。今回はそんな織田信長と天下統一について解説していきます。

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戦国時代以前の政治体制~天皇中心から将軍へ~

戦国時代以前の奈良時代には大宝律令がしかれ、天皇中心の政治でした。

地方には豪族と呼ばれる力を持った一族がおり、特に近畿地方の豪族が貴族となって天皇から高い地位とそれに見合った給料をもらっていました。

この頃は天皇が官人を把握して政治を行っていました。

平安京その後、平安京に都を移した平安時代は、約400年間続きました。始めは律令政治が継続されていましたが、平安時代中期には王朝国家体制へと転換していきます。

中央政府は国司と呼ばれる地方役人に任国内の支配を委任し、諸国国内の行政に指令を出さなくなりました。

国司は支配を任される代わり、中央に特産物などを納税しなければならなくなりました。

967年に冷泉天皇が即位すると摂関政治が行われるようになり、中央政府は藤原氏と源氏が勢力を二分するようになります。

平安時代後期には諸国国内の行政組織や制度が大幅に変更され、親交の在地勢力が新たな集落単位である郡や郷を治めるようになり、郡司・郷司が誕生します。これが武士の始まりです。

1159年の「平治の乱」以降、中央政府内では平清盛が急激に力をつけていきます。しかし、反平氏勢力が挙兵し、平氏と源氏の戦いが始まります。この頃から寺社の焼き討ちが行われていました。

1185年の「壇ノ浦の戦い」で平氏は滅亡。源氏の時代・武士の時代が始まります。

1192年には源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ天皇にかわり、将軍が政治を行うようになります。

しかし、天皇中心の政治体制を再構築しようとする後醍醐天皇が倒幕計画を立てますが、二度に渡り実行前に露見し、1332年に隠岐島へ流されてしまいます。

しかし、後醍醐天皇が撒いた倒幕の種は、今の政治体制に不満を持っていた各地の悪党たちに引き継がれ、楠木正成や赤松則村などが次々に地方で挙兵します。

1333年、反幕府勢力を討伐するために派遣された足利尊氏が北条高家の戦死を見て反幕府側へと寝返り、六波羅探題を落とします。

その後も戦いは続きますが幕府軍の有力な武将の多くが戦死し、観念した北条高時ら北条一族283人と家臣870人は東勝寺に集合し、寺に火を放つと自害しました。

これで鎌倉幕府と北条一門は、滅亡して新たな時代が幕を開けます。


室町幕府は武家政治

新たな室町幕府が織田信長が生きた時代です。この時代は武家中心の政治が行われていましたが将軍足利家が中心でした。

3代将軍・足利義満が京都北小路室町に花の御所を造営し、歴代将軍を「室町殿」と呼びました。

義満の時代、国内は安定していたものの1467年~1477年の「応仁の乱」と1492年の「明応の政変」以降、全国動乱の時代「戦国時代」を迎えます。

それまでの幕府が中心となる守護体制と荘園公領体制が崩壊し、各地に地域国家が並立するようになりました。これが戦国大名の始まりです。

ここでようやく戦国時代にたどり着きましたね。今までは中心があって、地方を治めるというある意味の天下統一がなされていたわけですが、ついに「群雄割拠」の時代が到来します。

鎌倉時代以前には見られない出自不明な農民や商人たちの社会進出が可能となり、没落していく旧勢力もあれば、新たな勢力が生まれた時代でもありました。

この時代は日常の些細ないざこざでも民衆や武士を巻き込んだ大騒動になっていたそうです。

ではなぜ、戦国大名たちが力を持ち、天下統一を目指すようになったのか見ていきましょう。

 

戦国大名と天下統一

室町幕府は南北朝時代とも呼ばれ、北朝の足利将軍家と南朝の後醍醐天皇の二つの勢力がありました。3代将軍足利義満が南北朝を統一し、天皇に迫るほどの権力を確立します。

しかし、義満の死後、大名合議制に戻った政治体制の中で相対的に将軍の権力は低下していきました。さらに民衆による一揆や南朝再興運動などが起こります。

これ以上将軍の権威を低下させるわけにはいかない大名たちの思惑もあり、足利義教がくじ引きで将軍になると土岐氏や赤松氏、大内氏ら有力大名の後継争いに干渉し、将軍の権力を強化するように働きかけました。

また、幕府に反抗的だった足利持氏とその残党を「永享の乱」と「結城合戦」で討ち取りました。

これにより、一見足利将軍家に歯向かうものはいなくなり、社会は安定したかのように見えましたが、余りにも強硬な政治体制だったため、人々は「恐怖政治」と反発し、赤松満祐によって義教が暗殺されると将軍の力は衰えていきました。

その後、幼い天皇が続いたため、有力大名による合議で国の政治がなされました。

中でも8代将軍の義政は、芸術や建築で素晴らしい才能を発揮したものの政治への関心は乏しく、政治は将軍の妻・日野富子や将軍の側近、有力大名たちの権力抗争の場となってしまい、関東で起きた「享徳の乱」の時も十分な対策をしませんでした。

子供に恵まれなかった義政は、養子・義視を迎えます。後継者にする予定でしたが、富子に義尚が生まれると後継者を巡って両者の支持者が対立します。

応仁の乱やがて両者は全国の大名の兵力を政治の中心である京都に結集して大規模な軍事衝突を引き起こしました。

これが応仁の乱です。しかし、大名たちの士気は低く11年間も決着がつかず、延々と軍事衝突を繰り返すことになりました。この戦いは何も解決しないまま終わりを迎え、義尚は若くして病死。

父・義政は隠居して芸術の世界で生きたことから将軍の権威は大きく失墜。今まで幕府から与えられていた守護としての統治権そのものが権威を失ってしまいました。

これにより大名たちは一揆などその国の領民たちからの権威を脅かされるようになってしまったのです。

権威を失墜させた将軍に代わって頭角を現してきたのが細川氏や畠山氏などです。

細川氏は将軍・足利義材と繋がっていた畠山政長を討ち、1493年に義材を追放。新たに足利義澄を将軍に擁立しました。



大名が将軍を擁立することで将軍が部下であったはずの大名に利用されるようになりました。

そうして政治の実権を握った細川氏でしたが、後継者が次々に暗殺。後継者争いが行われるようになります。

この内紛によって室町幕府の機能は完全に停止。京都周辺を治めるだけの一勢力へと転落します。

これから先の将軍家は、戦国大名への権威付として存在感を示すだけの形式的な存在になりました。

信長も将軍を擁立していましたからね。つまり将軍擁立は「権力ありますよ」っていうことを周りに示すためなんですね。将軍自身にはあまり権力ないです。お飾りですね。

そんな戦国大名の一人が織田信長です。ここまで見て感じでは、この時代の天下統一というのは、誰が足利将軍家の後見人になるかということです。

一応将軍という役職が存在する中で将軍を利用し、勢力と領地を拡大し、自分好みの国を作るかという争いなんですね。そして朝廷と渡りあえるだけの発言力を手に入れられるか….

自分が与えられた勢力範囲をいかに増やし、将軍の権威を借りて統治するかということが大切だったわけですね。

その手段として「婚姻関係による同盟」や「戦(いくさ)」であったのでしょう。

しかし、戦では多くの人の命が失われます。天下統一を平和的に成し遂げるには、並大抵ではない努力と知勇、そしてそれを受け止められる強さが必要だったのではないかと推測します。

いかがでしたか?天下統一を成し遂げれなかった織田信長ですが、冷酷無比なイメージがある一方で、意外にも自分が治めている地域では善政を布いていたようです。

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