織田信長と浅井久政
家督を相続した久政
浅井久政(1526年~1573年9月23日)は、浅井長政の父で1542年に勇猛であった父・亮政が死去したことにより家督を相続しました。しかし、久政は庶子(しょし)であったため、亮政は正室との間に生まれた娘・海津殿の婿である浅井家庶家の田屋明政に家督を譲ることを望んでいたとも言われています。
また、義兄の明政も久政が家督を相続することに対して納得しておらず反乱を起こす等、家中に火種を抱えることになりました。
久政が家督を相続してからは、近江南部を中心に勢力をもっていた六角氏に押され、ついには六角氏の配下となってしまいます。
さらに自身の嫡男・長政に六角氏の家臣・平井定武の娘を娶らせるなど六角氏に対して従属の姿勢をとり続けたため、浅井家の家臣たちは不満を募らせていきます。
六角氏からの独立
1560年に嫡男・長政が「野良田の戦い」で六角義賢に勝利すると浅井氏は六角氏から独立しました。家中でも久政に対して不満を持っていた家臣たちに迫られ家督を長政に譲り、久政は半ば強制的に隠居させられます。
長政も正室であった平井定武の娘と離縁し、六角氏に返しています。
一時、久政は竹生島に幽閉されていましたが1560年に久政の正室・小野殿が久政のもとを訪れ、長政と和解する様にすすめます。
久政は小谷城下の別邸で隠居をすることになりましたが、その後も長政に対して意見を通すことができたと考えられるため、家督相続に至った経緯については疑問が残ります。
信長との同盟
斎藤道三が没後、美濃の斎藤氏との関係が険悪なものになっていた織田信長は、1561年に斎藤義龍が急死したことで家督を義龍の嫡男・龍興が継ぐと美濃へと信長は出兵します。「森部の戦い」で龍興に勝利し、織田家が斎藤家よりも優位に立つことになります。
すると酒や女に溺れて政務を顧みようとしない龍興に嫌気がさした竹中重治や安藤守就の軍勢が、龍興の居城である稲葉山城を占拠するなどの反乱が起こりました。
1564年には美濃の斎藤氏を牽制するため、北近江で勢力を持っていた浅井氏と信長は同盟を結び、長政は信長の妹・お市の方を娶りました。
しかし、この同盟は信長と久政の盟友である朝倉氏が不仲だったため、浅井家家臣の中では賛否ありましたが、この同盟により上洛のための近江口を確保することができ、美濃攻略の足掛かりを得た信長は喜びました。
本来なら浅井家が用意する結婚資金も全額負担するなどしましたが、隠居中の久政は終始反対し続けていたようです。
選択を迫られる浅井長政
足利義昭を擁して上洛し、朝倉氏に対して再三の上洛命令を出した信長でしたが朝倉氏が応じなかったため、1570年に朝倉氏討伐のため、越前国へと信長は軍を進めます。同盟を結んでいる織田と久政の盟友朝倉氏との間で、どちらにつくかを迫られた浅井家は久政の朝倉につくべきという意見に長政が折れました。
織田軍に朝倉方の城が次々と落とされていく中、織田家から離反し朝倉方につきました。
姉川の戦いで織田・徳川の連合軍に敗れた浅井・朝倉の残党が比叡山へと逃れますが、信長はそれを焼き討ちします。
1573年には朝倉の本拠地である一乗谷を攻め、一乗谷が陥落すると次は浅井家の本城である小谷城を攻撃。
久政の籠る小丸と長政がいる本丸は木下秀吉によって分断され、もはやこれまでと悟った久政は一族の浅井福寿庵に介錯され自害。
長政も不破光治や木下秀吉の降伏勧告を断り続け、久政が自害した数日後に自害しています。