織田信長と明智光秀


本能寺の変を起こし、織田信長を自害へと追いやった人物といえば明智光秀ですよね。

主君を裏切った悪役として描かれることが多い光秀ですが、彼は織田信長の家臣の中でも一風変わった人物だったようです。

今回は織田信長と明智光秀について詳しく解説していきます。

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明智光秀が放浪

明智光秀明智光秀は、1528年に清和源氏の土岐氏の支流明智氏の生まれと言われています。父は東美濃を本拠地とする明智光綱で、生まれた場所は明智城が有力とされています。

青年期はあまり資料が残っておらず不明ですが、1556年光秀が28歳の時、斎藤道三と息子の義龍の父子同士の戦い「長良川の戦い」が起こり、その時に道三側の味方をしたため、義龍の軍に明知城を攻撃され、一族の多くが討ち死にし離散してしまいました。

光秀は明智家を再興するために諸国を放浪し、各地で禅寺の一室を間借りするといった極貧生活を送っていましたが、その後越前国の朝倉義景を頼り、朝倉の下で10年間仕官しました。

この時、光秀は鉄砲の射撃技術がかわれて召し抱えられたそうです。射撃演習の模範となるほどの腕前で、通常の倍ほども距離のある的に100弾命中させ、その内の68発が中心の黒星を打ち抜いていたといいます。凄いぞ!光秀。

織田信長と出会う

その後、1566年光秀が38歳の時13代将軍・足利義輝が暗殺されると弟の足利義昭が今日の都を脱出し、姉婿である若狭国の守護・武田義統の下へと逃れてきました。

その直後から義昭は信長を含む各地の武将に上洛と将軍擁立を促し、一度は了承されます。この時に細川藤孝が使者として遣わされました。

桶狭間の戦い1566年、義昭は織田と斎藤両家に尾濃和睦を結ばせますが、それを破る形で信長が出兵したため、流れてしまいました。

そのことを受け、信長に不信感を募らせた義昭は一旦信長に見切りをつけ、さらに拡大して各地の武将に援助を求め、朝倉氏を頼ってやってきたのです。

すると、光秀は義昭の側近である細川藤孝と意気投合。仲良くなった藤孝を通じて義昭にも知られることになります。

義昭は幕府の再興を願っていましたが、頼った朝倉義景は天下を取る野心に欠けており、今度は朝倉氏に見切りをつけ、桶狭間の戦い以降は勢い付いている織田信長を再度頼ることにしました。

1567年、光秀は義昭に見込まれ、付き従う形で朝倉家を離れて両者の仲介者として織田信長の家臣となります。この時の光秀は室町幕府の幕臣でありながら、織田信長の家臣でもあるという特殊な環境に身を置くことになります。

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将軍擁立2回目の使者として、細川藤孝と共に織田への仲介者として光秀が遣わされましたが、これは斎藤道三の娘で織田信長の正室である濃姫が光秀の従兄妹であったため、その縁を頼ったという説がありますが、本当に濃姫と光秀が従兄妹であったかは不明です。

光秀は義昭と信長の両家の家臣として、1568年9月26日の義昭の上洛に加わります。

翌年の1569年1月5日に三好三人衆が義昭の宿所を急襲した際には、義昭側に光秀の名前も書かれており、これが「信長公記」の中における光秀の初登場になります。

この奇襲攻撃は織田信長が主力の軍を率いて美濃国に帰還した隙をついて行われましたが、豪雪の中で織田信長は2日間で援軍に駆けつけるという機動力を見せつけました。

しかし、三好三人衆と斎藤龍興らは浅井・池田の援軍と明智光秀の活躍により、信長到着前に敗退してしまいます。

信長と足利義昭の両属の家臣となる

幕府と織田信長の両方に属していた明智光秀ですが、1569年4月頃から木下秀吉、丹羽長秀、中川重政と共に織田の支配下である京都とその周辺の政務にあたり、京都奉行の職務を行っていました。

1569年、信長は足利義昭に対し将軍としての権力を制限するための「殿中御掟」9条を認めさせ、さらに追加で7条の掟を発令し、そちらも認めさせました。

その翌年の1570年に信長が義昭を規制するための「五箇条の条書」を通告しますが、宛先は光秀と朝山日乗で、彼らが間に立ち、義昭は承諾の刻印を押しています。

同年4月28日信長軍の武将として朝倉攻めに参戦しますが、浅井長政の裏切りによって危機に陥り撤退する際、金ヶ崎の戦いで秀吉と共に殿を務めて防戦に成功。

同年9月の浅井・朝倉軍との戦い「志賀の陣」では、配置されたものの400人程の小さな戦力で、戦が小康状態になると宇佐山城を任され、滋賀と周囲の土豪の懐柔策を担当しました。

1571年に三好三人衆と大阪本願寺が挙兵した際、信長と義昭に従軍し摂津に出陣。9月の「比叡山焼き討ち」は、中心実行部隊として武功をあげます。

また、近江国の滋賀郡約5万石を与えられ、坂本城の築城を開始。光秀は12月頃義昭に暇を求めるが不許可となってしまいます。

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両属の家臣から織田信長の直臣へ

1572年10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、このことで信長と義昭の関係は完全に悪化してしまいます。

1573年武田軍が遠海国から三河国に侵攻し、2月に野田城を攻略すると義昭も信長に対して挙兵しますが、京都へ信長が着陣すると幕臣たちが信長についてしまいます。

光秀も義昭とは袂を分かち信長の直臣として参戦します。しかし、信長は将軍を重んじ、義昭との講和交渉を進めます。残念ながら交渉は成立寸前までいって松永久秀が妨害して破綻します。

同年7月、足利義昭は槇島城で挙兵しますが義昭は降伏。その後、追放され室町幕府は事実上滅亡します。その後、旧幕臣伊勢貞興や諏訪盛直など光秀に仕えたものは多くいます。

明智光秀この頃、坂本城が完成。この城を居城とし1575年に光秀は惟任の賜姓を受け、従五位下、日向守に任官し惟任日向守となります。

この明智光秀の坂本城は、フロイスに「安土城の次に天下に知られた名城」と絶賛されるほどの城だったようです。

1575年、光秀は一向一揆のなで斬り殲滅戦に参加し、石山合戦では高屋城の戦いに参加。そして丹波を攻略するように命令を受け任されます。織田へきてわずか3年ほどのことでした。

光秀はまず黒井城を包囲して戦いを開始しますが、同軍の八上城の波多野秀治が裏切り、不意を突かれて光秀は敗走します。

その後、石山本願寺戦に参加するも5月5日逆襲を受け、司令官であった塙直正が戦死。光秀自身も直ぐに天王寺砦を攻められ危機に瀕しますが、危ないところを織田信長の援軍に助けられます。

どうにか難を逃れた光秀ですが、同年11月7日、光秀の妻・熙子が坂本城で病死してしまいます。しかし、光秀の丹波攻略は続きます。

1577年、雑賀攻めに従軍、同年10月信長に反逆した松永久秀を「信貴山城の戦い」で自害に追い込み城を落とすと丹波攻めを再開します。

亀山城を落として拠点にすると難敵八上城を包囲。各地を転々と往復しながら戦を繰り返します。

光秀は播磨の秀吉の援軍に出向いたり、信長に背いた荒木村重を攻め、「有岡城の戦い」に参加している中、1579年には包囲し続けていた八上城が飢えのため落城。

8月9日黒井城を落城させついに丹波を平定することに成功します。その後、足利義昭の側近から織田信長の家臣になった細川藤孝と協力し丹後も平定。

その光秀の功績は佐久間信盛折檻状の中で「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と織田信長に絶賛されています。

この功績から丹波一国を拝領された光秀は、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶など近畿の織田大名たちを与力として配属されます。

1581年には京都馬揃えの運営を任され、「明智家法」の後書きには「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召し出し、その上莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長さまへの御奉公を忘れてはならない」と信長への感謝を書いています。

さらに本能寺の変が起こる1582年1月に行われた茶会でも「床の間に信長直筆の書を掛ける」とあり、茶室の床の間は、貴人の座の象徴であることから光秀が信長を崇敬していた様子がわかります。

3月5日甲斐の武田家との最終戦である甲州征伐に向かう信長に従軍していますが、先行していた信忠の軍が主力であり、光秀は見届けるだけだったようです。

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光秀が謀反を起こす

1582年5月、甲州征伐の祝勝会が行われ、光秀は徳川家康の接待を命じられます。しかし、毛利攻めをしていた羽柴秀吉の援軍に向かう為、接待の任務を解かれることになります。

運命の6月2日、秀吉の援軍に向かうために出陣。しかし、途中で光秀は「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」と告げ京都へ向かったといいます。

光秀は重臣たちには主君信長討伐を告げたと言いますが、雑兵は何も知らされていなかったようです。この本能寺の変については数々の都市伝説があり、なぜ光秀が謀反を起こしたのか本当のところはさだかではありません。

本来は信長の命令で勢力を伸ばしていた徳川家康を暗殺する予定だったとも言われています。

光秀は1万3000人ほどの軍を率いて、織田信長が宿泊していた本能寺を急襲。信長の傍にはわずか100人程しかおらず奮戦するも最後は自ら火を放ち、織田信長は自害しました。

ちょっとだけ天下をとった光秀

光秀は本能寺で主君信長を自害に追い込むと京都を抑え、残党追補を行いました。

光秀はまず、居城である坂本城に入り6月4日まで近江を平定。6月5日には安土城に入り、信長が貯蔵していた財宝を強奪して自分の家臣や味方に与えました。

明智光秀の墓しかし、光秀の親友であった細川藤孝は、息子・忠興に家督を譲り、自らは剃髪して隠居します。

忠興の正室で光秀の娘でもある珠を幽閉し、光秀の誘いを拒絶し続けました。

同じく光秀と関わりが強かった大和の筒井順慶も秀吉方につき、光秀は窮地に立たされます。

6月13日光秀は坂本城を目指して落ち延びる中、落ち武者狩りの百姓によって竹やりで刺され、深手を負った光秀は自害しました。

介錯は溝尾茂朝が行い、首は竹藪の中に隠されましたが百姓に発見され、村井清三を通して信孝のもとに届けられ、本能寺にさらされました。

いかがですか?流浪時代に仕官を求められた毛利元就は、光秀について「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり。喜怒の骨たかくおこり、その心神つねに静ならず。」といって断ったそうです。

三日天下様と呼ばれる明智光秀にあまりいい印象がないという人が多いと思いますが、意外にも自分がおさめていた地域では内政に優れ、領民を愛し、善政を布いたと言われています。

また、諸学に通じ、和歌や茶の湯を好み、茶会や連句会を主催するなど文化人でもあったようです。

今でも光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くあります。彼がなぜ信長に謀反を起こしたのか、真実が解き明かされる日が楽しみですね。


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