3分でわかる織田信長の歴史

織田信長と本能寺

織田信長が明智光秀の謀反により、自害し果てた本能寺の変の舞台となった寺。今はその場所には片隅に碑が建っているだけで、当時の面影は一切ありません。
科学が発達し様々なことが新しく生み出され、そして過去のことも科学のメスが入れられるようになりましたが、今なお不明なことが多い信長の最期。
今回はその悲劇の舞台となった本能寺にスポットを当てて調べてみました。
 
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再建され続ける本能寺

本能寺の変現在の所在地は、京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522ですが、本能寺の変が起きた時は中京区蛸薬師通小川通西南角にありました。

本能寺は元々「本応寺」という寺号で1415年に日隆によって創建されました。

日隆は1402年今の妙顕寺にあたる妙本寺で修学していましたが、1410年に法華経の解釈の違いから寺を後にします。その後油小路高辻と五条坊門の間の地に1415年本能寺の基となる本応寺を建立しました。

1418年法華経を巡って対立していた妙本寺の月明上人の命で、妙本寺の教徒たちによって本応寺は破却されてしまいます。建立からわずか3年でした。しかし、その後も本能寺は何度も再建を繰り返します。

1429年 小袖屋宗句の寄進で現在の西陣あたりに本応寺を再建

1433年 如意王丸を願主に六角大宮に本能寺を建立

如意王丸……だ、誰?いきなり広大な土地を寄進できる人物ということからお金持ちで身分が高そうなのはわかりますが、誰なんでしょうね?名前がかっこよすぎて。足利氏の中に如意丸という人物がいますが年代が合いませんものね。気になります。

しかし、本能寺は足利氏の保護も受けていますし、何か関係があるのかもしれませんね。

1536年 天文法乱にて延暦寺の僧徒により焼き討ちされる

焼失した跡地には善想寺というお寺が建っています。元々は藤原頼忠の邸宅があった場所で善想寺の開基・想阿善悦上人は藤原家の子孫にあたるそうです。ということは如意王丸は藤原家?

1545年 第12代貫主・日承聖人が四条西洞院に建立

1582年 本能寺の変が勃発し焼失 織田信長自害

広大な寺地に再建され大伽藍が造営されました。さらに子院も30余りありました。

開山以来山号を持たず尼崎の本興寺と両山一貫主制でしたがその後布教活動により畿内、北陸、瀬戸内、種子島まで広まり、本能寺を中心とした本門流教団が成立しました。

織田信長といえば鉄砲を使った三段撃ちですよね。本能寺は早くから種子島に布教していました。そして種子島といえば鉄砲伝来。本能寺は鉄砲や火薬を手に入れたい大名たちとの関係が深かったようです。

神も仏も関係ないような織田信長ですが日承上人に帰依し、本能寺を上洛の際の宿所としていました。

明智光秀による謀反が起きた際織田信長は自ら本能寺に火を放ったそうです。

1592年 第14代貫主・日衍聖人により再建され、秀吉の命で現在の地に移転

1788年 天明の大火にて焼失

1840年 第77代貫主・日恩聖人により再建

1864年 蛤御門の変により焼失

1928年 現在の本堂再建

 

調査される本能寺

このように本能寺は何度も再建を繰り返してきた寺院です。それも「焼失」することが多かったようですね。そのため現在の本能寺は「能」の字の作りが「ヒヒ」ではなく「去」になっており「ヒが去る」という意味で字をかえているそうです。

本能寺また、1992年の本能寺の変当時に本能寺があった場所に建っていた京都市本能小学校が廃校になり、発掘調査が行われました。それにより、信長が宿所として利用していた当時の遺構が発見されています。

2007年にマンション建設のために遺構調査がなされましたが、本能寺の変で焼け落ちたと推測される瓦が見つかりました。

また、本能寺には多くの鉄砲や火薬が置いてあったとも言われていますので、織田信長が本能寺に火を放った時に爆発が起きたのかもしれません。実際に焼けた跡がない瓦も発掘調査で見つかっているので、本能寺は全焼したのではなく、半焼だったという説もあります。

もしも、本能寺で爆発が起こったのだとすれば、織田信長の遺体が見つからなかったことにも説明が付きますね。

しかし、残念なことにそのあたりの詳細はまだ分かっておらず、これから解明されていくことです。願わくば、私がこの世にいる間に真実を知りたいものです。
 

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