織田信長の墓


1582年本能寺の変で天下統一の志半ば、自害した織田信長。本能寺の変後、明智光秀の家臣がいくら探しても、遺体が見つかることは無かったと言います。

しかし、織田信長の墓は意外なほど沢山あります。それだけ織田信長という人物が畏怖されていたということでしょうか。

群雄割拠の戦国時代において織田信長は異端児であり、歌舞伎者と呼ばれながらも家臣たちからの信頼は篤かったと言います。

そのため、各地で信長の死を悼み供養したため、多く存在するのでしょう。そこで今回は数ある信長の墓所や供養塔の場所を紹介していきたいと思います。

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大徳寺総見院

京都府京都市北区紫野大徳寺町53

豊臣秀吉が信長の一周忌に信長の菩提を弔う為に建てた塔頭。信長の木像が安置されています。木像は元々2体あり、一つは現在安置されており、もう1体は火葬され供養されました。

大徳寺には他にも多くの塔頭があります。以前は濃姫ではないかと言われている養華院という塔頭もありましたが、今は廃寺となったのでありません。

本能寺

京都府京都市中京区寺町御池下ル市役所前

本能寺は何度も焼失していては再建されています。本堂の隣にある拝殿の奥に信長公廊があります。この信長公廊は織田信長が自刃した後、三男の信孝の命によって建てられたものです。

しかし、当時の本能寺は今の位置にはなく、1592年に秀吉の命で現在の位置に移転しています。また、幾度となく焼失しているため、本能寺の能の「ヒ(火)」が去ることを願う意味を込めて、本能寺の「能」の字は作りの部分が「去」になっている。

大雲院

京都府京都市東山区祇園町南側

こちらは正親町天皇が勅命を発し、貞安上人が織田信長と信長の嫡男・信忠の菩提を弔うために烏丸二条に建立した寺院でこちらにあるのは供養塔です。

大雲院という寺院名は信忠の方妙にちなんで名付けられました。元々、信忠が討たれた二条御所跡に創建されたのですが、同年中に秀吉の京都改造計画を理由に秀吉の命で、今の四条河原町に移されました。

その後1972年に東山区の大倉喜八郎旧邸に再移転しています。

2014年の発掘調査の際、旧大雲院の敷地跡から豊臣秀次の供養塔の一部らしき石材が見つかりました。また、大雲院には石川五右衛門の墓もあります。

建仁寺

京都府京都市東山区大和大路通四条下ル小松町

この寺院にある正伝永源院は、文永年間に創建された寺院ですが、天文以来荒廃していたのを織田信長の弟・織田有楽斎が1618年に再建しました。

有楽斎は信長の死後、剃髪し千利休に師事、茶道の道に進みました。その有楽斎が建てた茶室如庵が復元されており、ここには有楽斎の墓もあります。方丈前の庭には織田有楽斎が兄・織田信長を弔うために建てた五重塔があります。

妙心寺玉鳳院

京都府京都市右京区花園妙心寺町1

玉鳳院の開山堂の東側に信長・信忠父子の供養塔があります。しかし、非公開で拝観することはできません。その開山堂のすぐそばに明智風呂という建物があります。

こちらは1587年に今は廃寺となっている塔頭太嶺院の密宗和尚が、明智光秀の菩提を弔うために創建したものです。織田信長の供養塔の直ぐそばに明智光秀の菩提を弔う建物があるのは何だか皮肉ですね。

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安土城址

滋賀県蒲生郡安土町下豊浦

こちらも供養塔です。築城からわずか6年で焼失してしまった安土城。この二の丸跡に信長の廟所があります。ここには信雄・高長・長頼・信武の供養塔もあります。

信長の廟所には、信長が使っていた太刀や烏帽子が埋められているそうです。残念ながら立ち入り禁止で近くで見ることはできません。

西光寺

滋賀県近江八幡市中村町726

安土城下に能登の西光寺の僧貞安を開山として、織田信長が1580年に建立した寺院です。現在の場所には秀吉によって移転されました。

この西光寺には、阿弥陀寺から分骨された信長の「遺歯」が埋葬されているそうですよ。

南宋寺本源院

大阪府堺市南旅篭東3-1-2

南宋寺は茶人・千利休が修業した場所としても有名ですが、こちらの寺院の塔頭・本源院には織田信長・信忠親子の供養塔があります。南宋寺は三好氏の菩提寺です。

なぜここに織田信長父子の供養塔があるのかは不明です。しかし、南宋寺は大徳寺を本山としており、大徳寺の住持が南宋寺の住持だったこともあり、それが関係しているのかもしれません。ここには徳川家康の墓もあります。

高野山奥の院

和歌山県伊都郡高野町高野山

高野山には多くの武将の供養塔が建ち並んでいます。武田信玄・明智光秀・上杉謙信・石田三成など有名な武将たちの供養塔がずらりと並んでいます。

中でも高野山にゆかりのある豊臣家の墓所は、他の武将に比べて広い敷地です。織田信長の供養塔は、この豊臣家の墓所から、直ぐ近くの小さな坂を少し登り左手にあります。

武将の供養塔を多く見つけたい方は「一の橋」というバス停から行くと近いみたいです。

総見寺

愛知県名古屋市中区大須3-23-38

天正の頃、廃寺になりかかっていたのを織田信長の息子・信雄が父・信長の菩提と弔うために清州北市場に移し、安土総見寺にならい総見寺としました。

境内には信長・信雄父子の廟があり、寺宝には織田信長公座像などがあります。

瑞龍寺

富山県高岡市関本町35

瑞龍寺には織田信長の分骨廟があります。この寺院は前田利家の嫡男・利長の菩提を弔うために建立された寺院です。

前田利長は安土城で織田信長に仕え、1581年父・利家から旧領越前国府中の一部を与えられます。そして信長の娘・永姫を正室として迎えています。

本能寺の変の際には信長に呼ばれ、永姫と利長は共に本能寺に向かう途中でした。しかし、本能寺の変の急報を聞き、前田家旧領の尾張荒子に永姫を逃がした後、利長は信雄の軍に加わり、蒲生賢秀らと共に濃姫たちを匿い日野城に立てこもったとも言われています。

利長は本能寺の変の後に信長と信忠の分骨を迎えて、その霊を慰めたと言われています。

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織田信長供養塔

熊本県八代市北の丸町1-29八代第一中学校

この織田信長供養塔は、元々八代城に居城した細川氏・松井氏ゆかりの寺院がありました。細川忠興が織田信長追福のため、丹後国宮津に創建した泰巌寺は、豊前国府を経て八代の平河原町に移され、のちにこの地に移されました。

忠興は若い頃に織田信長に仕えており、忠興の妻・ガラシャは明智光秀の娘です。この婚姻は織田信長が取りまとめたそうです。

崇福寺

岐阜県岐阜市長良福光2403-1

本堂裏に信長・信忠父子の廟があります。信長が美濃に入って直ぐにこの寺院を保護しています。また、本堂には信長の孫である三法師秀信が、1600年の関ヶ原の合戦の時に東軍から攻撃を受け、岐阜城が落城した時に戦死した兵の霊を弔うため、白の床板を天井に張ったものだそうです。

その天井には今も血痕が染みついています。その他にも信長ゆかりの品がたくさん残されており、それらは信長の側室・お鍋の方がこの寺に安置したそうです。

今宮神社

京都府京都市北区紫野今宮町21

神社境内の少し小高い石垣の上に稲荷社と一緒に織田稲荷社があります。この織田稲荷社は織田信長を祀っており、阿弥陀寺の移転した跡地に建てられましたが、昭和62年に今の場所に移されました。

西山本門寺

静岡県富士郡芝川町西山671

織田信長の首塚があります。魔よけの意味がある大きなヒイラギ自体が首塚になっており、樹齢は450~500年とされていて年代的にも符合します。

寺には日順の父・原宗安は本能寺の変前夜に本因坊日海の指示によって、織田信長の首をここまで持ち帰り葬ったと伝わっています。

阿弥陀寺

 

京都府京都市上京区寺町通今出川上上ル鶴山町

ここが一番史実に近いとされています。寺伝によると本能寺の変の際、本能寺襲撃の知らせを受け塔頭寺院の僧徒たちと本能寺へ駆けつけました。

阿弥陀寺しかし、本能寺の裏の藪の中で自害した信長の遺骸を運びだしていた家来たちと会い、火葬にするのは出家したものの務めであると遺骸を預かり、遺骨を法衣に包んで阿弥陀寺まで持ち帰り墓所を築いたと伝わっています。

また、信忠の遺骸は二条城に放置されていたのを清玉上人が拾い集め、信長の墓所の隣に埋葬したとも伝わっています。

秀吉が信長の一周忌を執り行うにあたって阿弥陀寺で行いたいと申し入れをして断られているという話も残っていることから、この寺院が信長の墓としては有力とされています。

いかがでしたか?戦国時代の武将の墓や供養塔は沢山あります。信長程の有名人となれば後に作られたものも含めると大変な数です。

しかし、どこの供養塔、墓地でも彼の菩提を弔いたいという思いは同じだと思いますので、近くへ行った際には是非お参りしてみてください。


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